1989年、新幹県大洋洲鎮程家村で大量の青銅器とともに殷代の大型墓が発見された。墓内から出土した土器の器形は、呉城文化2期の同種の土器と一致しており、この墓が呉城文化に属することが分かる。
墓には当初墳丘が設けられていた。墓坑は東西方向に掘られ、槨室は長さ8.22m、幅3.6mであった。出土品は青銅器480点あまり、玉器100点あまり、土器300点あまりなど、あわせて1000点近くに達した。
青銅器の中には、殷代中期の特徴をもつものがあり、また安陽殷墟の同種の青銅器と酷似したものもあった。礼器としては鼎・甗・鬲・罍・卣・簋・瓿・壺・高坏・取手つき觚などがあった。楽器には鐃・鎛があり、両種あわせて60点以上にのぼった。武器は戈・矛・鉞・鏃・短剣・冑など250点あまりあった。農具は犁鏵・鍤・スコップ・鎌・斧・錛・鑿・錐・きぬた・彫刻刀・靴形器など120点あまりが出土した。
青銅礼器のうち、銅甗はとくに巨大で、高さ1.10m、重さ85kgあった。また方鼎は高さ97cm、重さ49.2kgあった。容積の小さなものでは、双耳鬲や扁獣足方鼎などがあり、いずれも高さが10cm - 13.5cmであった。このほか両面人頭形器・臥虎扁足鼎・立鳥双尾青銅虎・羊角獣面器など、類例をみない特異な造形の青銅器もあった。
この墓の年代は紀元前1200年前後とされており、中原での殷代後期に相当する。被葬者は殷代の南方諸侯国の統治者か、あるいは殷王朝の軍事的指導者と思われる。