新庄健吉
From Wikipedia, the free encyclopedia
1897年(明治30年)9月30日に農家を営む新庄竹蔵の三男として生まれ、京都府立第三中学校(現:京都府立福知山高等学校)を経て1915年(大正4年)12月、主計候補生となる。1916年(大正5年)9月、陸軍経理学校に入校し、1918年(大正7年)5月、主計候補生第12期として卒業する。同年12月、陸軍三等主計(少尉相当)に任ぜられ、歩兵第62連隊附を命ぜられる。
1920年(大正9年)7月からシベリアに出征、同年12月、第11師団経理部員に移り、1922年(大正11年)3月、二等主計(中尉相当)に進級。同年6月帰還する。1923年(大正12年)6月、陸軍経理学校高等科に入り、1925年(大正14年)5月卒業。陸軍派遣学生として東京帝国大学経済学部商業科に入る。1927年(昭和2年)3月、一等主計(大尉相当)に進級し、1928年(昭和3年)3月、経済学部を卒業、大学院に進み経営経済学を学び1930年(昭和5年)3月、大学院を修了する。
同年4月から陸軍被服本廠員となり、翌年3月には陸軍省経理局課員として矢部潤二課長の下、主計課に勤める。1933年(昭和8年)8月、三等主計正(少佐相当)に進級し、1935年(昭和10年)11月からソビエト連邦・ポーランドに軍事研究員として駐在する[2]。1937年(昭和12年)8月主計中佐に進み、同12月、陸軍経理学校研究部員を命ぜられる。1938年(昭和13年)2月に帰国し、同年3月企画院調査官として同財務部に出向、1939年(昭和14年)9月、支那派遣軍経理部員に移る。1940年(昭和15年)3月に主計大佐へ進級し、同年12月、陸軍経理学校教官に就任する。
1941年(昭和16年)1月、参謀本部附仰付、アメリカに出張を命ぜられ同年4月ニューヨークに到着する。アメリカの国力を調査し、日米の戦力を比較して戦争の見通しを立てた。日米開戦を目前にして12月5日、ワシントンD.C.で病死。その葬儀は、日米開戦当日の7日(現地時間)にワシントン市内で行われた(後述)。11日に正五位へ追陞されている[3]。
遺骨が日本に帰国を果たしたのは、1942年(昭和17年)8月20日であった。
対米諜報員
1941年(昭和16年)1月[注釈 1]に新庄はアメリカ出張を命ぜられた。新庄の任務は対米諜報である。アメリカの国力・戦力を調査し、来る日米戦争の戦争見通しを立てる事であった。いわゆるスパイであるが、4月に到着以後非合法な活動は伴わず一貫して公開情報の収集にあたった。公開されている各種統計等の政府資料から資材の備蓄状況等を割出し日本との国力差を数字に示した。諜報が目的である事から駐在武官府等の在米陸軍機関では活動せず、エンパイアステートビル7階の三井物産ニューヨーク支店内に事務所を開いた。勿論身分を三井物産社員と偽装してである。元々アメリカは新庄が調査せずとも世界一の工業生産力を誇っているのは明々白々であったが、調査の結果導き出された数字は重工業分野では日本1に対してアメリカ20、化学工業1対3で、この差を縮める事は不可能とあった。これらの調査結果を参謀本部に報告書として提出するが、渡米から3ヶ月働きづめだった新庄は体調を崩してしまう。1941年10月頃にワシントンにある駐米陸軍武官府に拠点を移すがさらに病状は悪化、11月にワシントン市にあるジョージタウン大学病院に入院する。しかし、12月4日急性肺炎を併発し44歳で没する。