新庄直宥
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麻生藩主新庄氏の傍流で、藩祖直頼の弟・直忠を初代とする旗本家に生まれる。初名は直富(なおよし)[4]。700石[2]。妻には本家新庄直祐の娘を迎えている[3]。
寛保3年(1743年)西の丸勤番だった父が没すると19歳で家督を継ぎ、将軍徳川吉宗・家重の下で小姓組番、進物番、納戸方を歴任。宝暦10年(1760年)家重が将軍職を子の家治に譲った後も引き続き家重に仕え、翌年家重が亡くなると一時的に寄合に移るが程なく小納戸として復職し、小十人組頭を経て、明和元年(1764年)目付に就任。翌年、日光で徳川家康150回忌法要が行われた際に功績があった。明和5年(1768年)小普請奉行に准じられ、三河吉田城下の吉田橋普請に加わる。明和6年(1769年)作事奉行に任じられ、叙任を受け能登守となった[2][1]。
安永3年(1774年)一橋家家老となり(当主:徳川治済)、安永5年(1776年)大目付を兼務[2][1][5][6]。翌年、家老を辞したものの一橋家への奉仕は続けられ、後任の家老らとともに家政に関与した[1][7]。安永8年(1779年)55歳で没。家督は嫡男の直清が継承した[2][8]。