新治汲古館

From Wikipedia, the free encyclopedia

新治汲古館(にいはりきゅうこかん)は茨城県筑西市古郡に2011年まで存在していた私設の考古学博物館である。

新治汲古館は茨城県真壁郡新治村(協和村、協和町を経て、現在の筑西市)出身で在野の考古学研究者である藤田清が蒐集した考古学関係資料をコレクションの中心にしていた。開館は1967年昭和42年)3月で、藤田家の敷地内に建てられた蔵が施設であった。2011年3月11日東北地方太平洋沖地震で建物が損壊し運営が不可能となったが、館内の資料は桜川市に一括移管され、散逸を免れた。この被災から移管に至る経緯は、災害からの文化財保護の一事例でもある[1][2]

藤田清について

藤田 清(ふじた きよし、1892年明治25年)12月?日[3][4] - 1965年昭和40年)7月28日[5])は、茨城県真壁郡新治村出身の日本の考古学者である。在野の研究者であったが新治郡衙跡、新治廃寺の研究・発掘調査で重要な役割を為した[6][7]

藤田清の地元には古い遺跡があり、藤田はこれを新治郡衙跡であるとの考えのもと、遺跡の顕彰碑の設置、保存活動などを行った。また、藤田の遺跡に関しての学術雑誌への記事投稿をきっかけに、高井悌三郎との遺跡発掘調査が開始され、結果、国内で初めて地方郡衙についての概要が報告されることになった。戦後は筑波町(現在のつくば市)の中村盛吉らと共に「常総古文化研究会」を結成し、茨城県内の遺跡調査を行った。これらの活動により蒐集した多くの貴重な考古学資料が藤田のもとには保管されていた[6]

在りし日の新治汲古館の姿

生前、藤田清は蒐集した資料を自宅敷地内で保管し、これらを地域の人の観賞に供するなどしていた。藤田清の死後、これらの資料をより一般に公開するための施設として、息子の藤田安通志によって藤田家敷地内に大谷石造りの2階建ての蔵が1967年(昭和42年)3月に建造された。これが私設の博物館「新治汲古館」である。名称は高井悌三郎が命名した[8]。この博物館により、新治郡衙跡・新治廃寺跡資料を始めとした藤田清の蒐集した資料は彼の死後も散逸することなく保存された[9]

新治汲古館のコレクションは、藤田清が高井悌三郎と供に発掘調査に係わった新治郡衙跡、上野原瓦窯跡、新治廃寺跡の発掘調査で得られた資料群が最大の量を占め、次いで中村盛吉との共同調査により蒐集された資料群が占めている。その他、高井悌三郎が行った水戸市の台渡廃寺跡発掘調査での資料などが含まれ、館のコレクション総数は1万点を軽く超えていた[1][10][11]

コレクションの中には『類聚国史』の「弘仁八年(817年)十月新治郡火災に遭ひ、不動倉十三字又焼失、穀物九千九百九十石焼かれた」との記述の裏付けとなった、郡衙跡から出土した焼けてになったコメ、など貴重なものもあった[12]

これら資料には藤田清及び館の支援者である「常総古文化研究所」によって、蒐集した場所や年月日等の情報が付けられており、資料価値が高かった。展示構成は1階に新治郡関係資料を、2階に「常総古文化研究会」が収集した資料を展示しており、重要な資料については内容的にレベルの高いキャプションが付けられていた[13]

館の初代館長は自身も考古学研究を行っていた藤田安通志で、2代目をその子息が継いだ。また1989年(平成元年)4月1日に館の収蔵品の整理や研究を行う「常総古文化研究所」が茨城県立歴史館の阿久津久らの当時の若手研究者によって結成され、館の運営に協力した。「常総古文化研究所」は初代所長を藤田安通志が務め、藤田安通志の没後の1996年11月28日からは高井悌三郎が2004年に死去するまで務めている[10][14][15]

館の見学は無料で、見学には事前の連絡が必要であった[16]

新治汲古館の芳名帳には、梅原末治後藤守一相沢忠洋らの名が記されており、考古学関係者の間では知られた施設であったことが窺える[9]

2002年7月20日から9月16日間開催の茨城県立歴史館の特別展「考古紀行いばらきー考古学に魅せられた人びとー」では新治汲古館蔵の資料と共に藤田清、中村盛吉の業績が紹介されている[17]

東日本大震災での被災から資料の移管へ

脚注

関連文献

Related Articles

Wikiwand AI