新生 (キリスト教)
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新生の聖書的根拠
概念
いくつかのキリスト教の教派では、新生した者がクリスチャンであるとし、この語で明白にこれを表している。ボーン・アゲイン(新生)の語はアメリカ合衆国で一般的であり、宣教を通して世界中で使われるようになっている[5]。なお、神学上、すべての真のクリスチャンは新生していると考えられる。
神学において救いの教理は、救済論(きゅうさいろん)と呼ばれる。使徒パウロは、新生は「新しい創造[6]」であり、神の御業によって、罪深いかつての生活から解放されて、新しい歩みをし、聖霊によってキリストとの関係を与えられ、いのちある新しい生活を始める事が出来るという救済論を、教えている。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 — 第二コリント教会への手紙 5:17、新改訳聖書
教派による「新生」の意義と取扱
新生の概念は、およそキリスト教ならすべての教派が持っているが、それを強調する教派はプロテスタントのうち歴史的に大覚醒、信仰復興運動に連なる福音派ならびに聖霊派である。
新生を強調する教派での理解
聖霊によって新たに生まれ、イエス・キリストと結合する霊的なバプテスマ(洗礼)を受けたことを指している。
聖霊による新生
福音派および聖霊派では、十字架の福音を受け入れて信仰を告白し、聖霊によって新たに生まれた者のみがクリスチャンであると認める。そして、教会に出席して、洗礼を受けただけでは新生しないと教える[7]。聖霊によって新生したクリスチャンは、自覚的な回心を経験するとされているが、これは必ずしも劇的な回心体験を意味していない。また、「新生は神の側のことで、回心とは人間の側のことである[8]」と言われている。ジョナサン・エドワーズは、会衆に向かって「新生体験のない者は、神の怒りの下にある」と述べた[9]。人が救われたことを指して新生の語を使う福音主義者、根本主義者、ペンテコステ派のクリスチャンは聖霊による新生と、個人的な回心経験を結びつける。この派のクリスチャンは、真のクリスチャンは回心を経験すると断言する。聖霊による新生を信じる教会においては、洗礼(バプテスマ)を受けて、教会員になる資格を持つ者は、新生した者のみである。
ウェスレアン系
ウエスレアン・アルミニアン神学を支持する教会(ホーリネス派やペンテコステ派)では、新生と区別して、新たに生まれ変わる体験「第二の回心」と「聖化」を強調している。ウエスレアン・アルミニアン神学を支持する教会では聖霊によるバプテスマ、聖霊のバプテスマとも言う。
ペンテコステ派
聖霊によるバプテスマと聖霊のバプテスマ
新生は、イエス・キリストを信じた時に聖霊が自分の内に住むという聖霊の内住を表している[13]。ただし、この理解をとる立場でも、聖霊のバプテスマの語は教派によって異なる使い方をされる場合がある[14][15][16]。
福音派の指導者マーティン・ロイドジョンズと尾山令仁は、新生を「聖霊によるバプテスマ」とし、キリストによる「聖霊のバプテスマ」と区別しているが、必ずしも異言を伴うものとはしていない。ロイドジョンズの『栄えに満ちた喜び』は福音派と聖霊派の共通点を明らかにするものだといわれる[17][18][19]。
ボーンアゲインを名称とする団体
新生を強調する宣教団体に、高校生向けの伝道団体Hi.B.A高校生聖書伝道協会(High School Born Again)がある[20]。
新生を洗礼と結びつける教派での理解
正教会やカトリック教会、聖公会、ルーテル教会などの教派では、洗礼によって新たに生まれると理解する。
これについて、福音派は「洗礼による新生(洗礼による再生)」の理解は異端であるとして退けており[21][22][23][24][25]、改革派教会によっても「洗礼による救い」は異端であると考えられている[26]。また、プリンストン神学のチャールズ・ホッジは「洗礼を受けることを命ぜられていることは確かである。しかし此等は信仰によって服従する義務であって、救いの手段ではない[21]」、「洗礼によって人は神の子とされ天国の世嗣となる、というようなことを教える者は非キリスト[21]」であるとしている。
しかし、そもそも「洗礼によって新たに生まれる」と理解するこれら正教会やカトリック教会などの教派では「新生」の語そのものや「洗礼による新生」という表現が使われることはほとんどなく、強調もしていない。
ルーテル教会
マルティン・ルターは、洗礼における再生と救いの力について次のように述べています:
それを行うのは水ではなく、水の中にあり、共にある神の言葉、そしてその言葉を信頼する信仰である。[27]
ルーテル教会は「洗礼による再生」を肯定しており、洗礼は人間の行いではなく、神が信仰を生み出し、強めるための「恩寵の手段」であると信じています。[28][29]
ルーテル教会は、聖書が洗礼を通してキリストと結びつき、キリストの働きによって新しい命を受けることを示していると考えます。聖書の著者は「清め」のイメージを用いて、洗礼がキリストの救いの業を受ける者に適用されることを表しています。また、信仰・洗礼・キリストに包まれることの関係性を描いており、その結果、キリスト者は神の子としての権利と祝福を受ける存在となります。[28][29]
ルーテル教会は、使徒パウロがテトスへの手紙の中で聖霊の働きを紹介し、洗礼・新しい命・キリストの祝福を再び結びつけていると述べています。[30]ルーテル教会の神学者たちは聖書において次のように結論づけています:
洗礼は、神が私たちのために行うことの単なる象徴ではありません。教会に外面的に結びつける儀式でもありません。神は洗礼を通して働いておられます。キリストの死と復活に私たちを結びつけ、すべての憐れみと恵みを受ける者に注がれます。聖霊はイエスへの信仰という新しい命を与えてくださいます。その結果は驚くべきものです:キリストと共に葬られ、共に復活し、キリストに包まれ、罪を清められ、赦された信仰者として神の子となり、永遠の命の相続人となるのです。[30]
ルーテル教会の小教理問答は、洗礼について次のように述べています:「洗礼は罪の赦しをもたらし、死と悪魔からの解放を与え、神の言葉と約束を信じるすべての者に永遠の救いを与える。」[31]
ルターは大教理問答(第13章)においても次のように記しています:「私たちは洗礼を受けなければ救われないと、最も厳粛かつ厳格に命じられている。」[32]
あるルーテル教会の著者は次のように述べています:「『洗礼は外面的なものであり、外面的なものには益がない』と考える人々に対して、ルターは主が洗礼を制定された(マタイ28:19)こと、そしてその重要性を語られた(マルコ16:16)ことを根拠に、私たちは主の命令に従って洗礼を施すべきであると主張しました。聖霊は洗礼を通して人の心を変える働きをされるのです。したがって、洗礼は主の命令に基づく必要な行為であり、それを行うかどうかを私たちが決めることではありません。」[33]
20世紀のルーテル教会の神学者エドムント・シュリンクは、テトス3:5を引用し次のように述べています:「この救いの業において、人間の働きは完全に排除されています。それは神の業によってのみ行われ、洗いと聖霊の働きによって再生と刷新がなされるのです。」[34]
ルーテル教会は次のように教えています:「私たちは聖霊によって聖なる洗礼の中で罪を清められ、新しく生まれ変わり、刷新されます。しかし、洗礼を受けた者は、日々悔い改めと罪の告白を通して古い人(アダム)を沈め、新しい人が神の前に義と清さをもって歩むようにしなければなりません。洗礼後に罪の中に生きる者は、洗礼の恵みを再び失うことになります。」[35]
ただし、ルーテル教会の小教理問答第251項や他の教義では、洗礼が絶対的に必要であるとは限らないことも認めています。[36]ルーテル教会は、洗礼を受けなくても救われる可能性があり、また洗礼を受けた者でも後に信仰を失えば救いを失うことがあると考えています。[37][38]
正教会
正教会においては、洗礼機密において、古い自分が死によみがえり新しい生命に生まれるとされる(ただし「新生」の日本語語彙はまず用いられない)。洗礼機密で使用される聖水は、それまでの自己欲・肉体・物質中心の生活を殺す水であり、新しい人を生み出す生命の水であるとされる[3]。
洗礼を受け、ハリストス(キリスト)に結び合わされて新たに生まれ、聖神(聖霊)の恩賜を受け、信徒としてハリストスにある新しい生活に入り、神の肖を得ていく過程に入るとされる[1]。
カトリック教会
カトリック教会では、洗礼について新約聖書の『テトスへの手紙』3章5節を根拠として「聖霊によって新しく生まれさせ、新たに作りかえる洗い」と表現し、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(『ヨハネによる福音書』3-5)としている[39]。また、洗礼は救いに不可欠なものとしているが[40]、「新生」という語・表現は使用されない。