日下数馬

江戸時代末期の旗本 From Wikipedia, the free encyclopedia

日下 数馬(くさか かずま、1813年ごろ-没年不詳 )は、幕末旗本幕府奉行。通称は庄次郎。諱は房元。号は自完。官途名は対馬守腰物奉行・鉄砲玉薬奉行を務め、知行3500石を領した。小栗忠順は甥にあたる。

生涯

父・小栗忠清の子として生まれる。忠清には長いこと子がなかったため、忠高を養子に迎えたのち、実子の庄次郎(のちの日下数馬)が誕生した。忠高はのちに小栗忠順の父となる [1]

庄次郎は天保8年(1837年)、24歳のころに日下安太郎房重の養子となり [2]、のちに日下数馬房元と称した。代々幕臣の家で、腰物奉行を長く務め、また元治年間ごろには鉄砲玉薬奉行を兼ねた。職務に精励し、晩年は「自完」と号した [3]

慶応4年(1868年)、小栗忠順が幕府解体に伴い上野国権田村への帰農を命じられた際、日下数馬はその支援として金100両を貸与している [4] [5]。この時期の数馬の動向はしばしば忠順の『家計簿』や『日記』にも記されている。

同年1月、小栗忠順の日誌には叔父にあたる数馬が小栗家を年始に訪問した記録が残っている [4]。忠順は数馬の娘・鉞子(よきこ/いきこ)を養女とし、両家は密接な縁戚関係にあった。

明治元年(1868年)2月21日、数馬は隠居し、養子の日下寿之助に家督を譲った。寿之助は蕃書調所で句読教授方出精などを務めている。

維新後、禄を失い家勢は衰退した。数馬は正願寺(茨城県龍ケ崎市須藤堀村)に隠棲し、困窮のうちに没したと伝わる[6]

旧臣秋場桂園文久年間に数馬が将軍に従い上洛したころからの仲であり、主君の恩義を忘れず、のちに正願寺を訪れて「故征夷府摩下士日下君墓表」と墓碑を建立した。秋場は「主恩の厚きを懐う」と述べ、日下の人徳と不遇の晩年を悼んでいる [6]

娘・鉞子

日下数馬の娘である鉞子は、六歳で小栗家の養女となり安政6年に小栗忠道の許婚とされた。明治元年(1868年)に小栗忠順が幕府崩壊により上野で帰農した際にこれに従ったのち、新政府軍の追及を受けて忠順の意向により養母道子らと信濃・越後を経て会津へ落ち延び、翌2年に静岡へ移住したことまでは記録されるが、その後の消息は途絶えた。明治28年4月7日に東禅寺で黒紋付に紫の高祖頭巾の中年女性が小栗上野父子の墓前で密かに長い祈りを捧げ、立ち去った後に忠道の墓前へ鼈甲の櫛とかんざしを供えたとの記録や、明治3年4月に横浜から英国へ渡航した和装女性の税関記録が鉞子ではないかと推測される点が伝わるのみである [7]

参考文献

  • 『小栗上野介』(1975年、小栗上野介を偲ぶ会)
  • 『戦乱と人物』(1968年、吉川弘文館)
  • 『勝海舟と明治維新』(1974年、学習研究社)
  • 『水海道郷土史談』(1954年、常総文化史研究会)
  • 『幕臣小栗上野介 埋蔵金ゆえに罪無くして斬らる』(1982年、泰流社)

脚注

外部リンク

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