日下部鳴鶴
日本の書家・官僚
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業績
略歴
1838年、彦根藩士・田中惣右衛門の次男として生まれる。初名は八十八、のちに東作と改める。1859年、22歳の時に同じ彦根藩士・日下部三郎右衛門の養子となる。しかし1860年、藩主の井伊直弼が桜田門外で暗殺されたため禄は大幅に減り生活は困窮したが上京し書道に専念する決意をしている。
維新後、新政府が成立すると徴用され太政官に勤める。内閣大書記官となるが当時仕えていた大久保利通が紀尾井坂の変で暗殺されたことを機に退官し書道に専念する。
特定の人物に師事してはいない。しかし20代の時には、既に亡くなっていた貫名菘翁の書に傾倒しており、40代の時には、来日していた金石学者楊守敬のもとで碑学、六朝書、篆隷の研究を行っている。
その後は中国書法の研究をすすめ六朝書道を基礎に独自の書風を確立し多くの弟子を育てる。また中国に渡航し碑文研究を深めると同時に呉昌碩などの文人と交流し、「東海の書聖」と称されたといわれている。その一方で碑文の揮毫や雑誌の刊行、名跡研究などに努めた。


