日活児童映画
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1971年当時、経営危機のあった日活では労使で経営員会と映像委員会を立ち上げ、経営再建の方向性を模索していた。このうち映像委員会では
- 「戦争と人間」で結実した大作の製作を続けること
- 低予算で作ることのできるポルノ映画を製作、配給し、劇場網を維持すること
- テレビ・ビデオ事業を積極的に推進していくこと
と同時に日活労働組合側の提案で
- 児童映画部門を立ち上げること
が合意された。 この児童映画は非劇場映画として上映する認識で、「こちらから学校や地域に出かけ、親子映画のような方向で行うことが必要」(松本平『日活昭和青春記』WAVE出版、pp.167 - 168)となって発足した。日活撮影所内に「日活児童映画室」が設けられ、組合活動などを担ったメンバーなどでこの事業に参画した。作品一覧でも記述しているように、1972年春「大地の冬のなかまたち」が完成し、その後ほぼ年1作をペースに順調に製作されていくことになった。こうした中で、撮影所での「映画の灯を消すな」(撮影所が当時の電電公社の関連団体に売却されていたが、労働組合を中心に撮影所を維持し、映画作りの拠点を守ろうという運動が大きく盛り上がっていた)というスローガンの中、従業員の耐乏生活にめげすに良質の作品を生み出そうという意気込みで、児童映画は国際的にも高い評価を得る作品を作り続けた。特に第5作目の「先生のつうしんぼ」はアジア映画祭で大手東宝、松竹、東映の一般映画を抑えグランプリを獲得、海外への輸出にも貢献した。「アフリカの鳥」を製作した1975年から「北極のムーシカミーシカ」が各地の上映会でヒットする1979年までの5年間が日活児童映画の製作面での最盛期であり、この後数年はこの時期の作品の上映で営業的にも活気のある時期であった。その後製作に滞りが生じて、他社作品に依存せざるを得なくなり、数年ぶりに作った自社作品も精彩をかくことになっていった。
配給と興行
1960年代に始まった地域の文化ホールなどで上映される「親子映画運動」に依拠する形で、各地に起こった上映運動に作品が提供されていくことが眼目であったが(移動映画業者を媒介に小学校などの団体鑑賞として体育館などでも上映されていた)、1971年当時の日活には全国的に営業を展開する余裕はなかった。支社のある東京、中部、関西、九州などで地域団体に映画の普及を働きかけていったが、団体との関係を築けないところもあり営業を休止(関西)、合理化で人員削減に直面しながらも労働組合の主導で劇場勤務だった社員に児童映画の普及、営業に転換して続けたところも(九州、仙台)もあった。その後、アニメ作品「北極のムーシカミーシカ」の成功で、再度関西に営業拠点を設け順調に進んだが、九州は日活から分離して独立させることになった。
組織体制と変遷
親子映画運動との関係では共同映画系列が先行していたが、日活の参入で軋轢も起こり、全国を見据えた作品の供給には共同映画系列とは別に各都道府県ごとに活動を始めていた映画センター系列の各社と提携と協力関係をきずき、日活で担いきれない県へは作品ごとに配給、上映の権利を期限を設けて譲渡していった。具体的には1980年代以降は東京と大阪を中心に直営で普及・営業に当たった都府県(関東では東京、神奈川、千葉、群馬、長野など 関西では大阪、兵庫、奈良、滋賀、三重、福井、石川、富山および東北では宮城)、日活から独立した九州(福岡、大分、佐賀)以外は映画センター系列の各県の映画センター組織と契約していった。