旧木村家住宅 (石狩市)

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旧名称 濃昼茶屋
用途 住宅
旧用途 磯料理処
構造形式 木造平屋、一部2階建
旧木村家住宅(木村番屋)
旧木村家住宅
2022年7月
情報
旧名称 濃昼茶屋
用途 住宅
旧用途 磯料理処
構造形式 木造平屋、一部2階建
階数 2
竣工 1900年(明治33年)ころ[1]
所在地 061-3113
北海道石狩市浜益濃昼1-1
座標 北緯43度28分43.5秒 東経141度23分28.1秒 / 北緯43.478750度 東経141.391139度 / 43.478750; 141.391139座標: 北緯43度28分43.5秒 東経141度23分28.1秒 / 北緯43.478750度 東経141.391139度 / 43.478750; 141.391139
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旧木村家住宅(きゅうきむらけじゅうたく)ないし木村番屋(きむらばんや)は、石狩市浜益濃昼に所在する漁場建築遺構。

木村家は「カネシメ」の屋号で知られた、浜益におけるニシン漁業家の名門である[2]

初代・源右エ門
津軽の大泊の漁師だった[3]
2代目・源右エ門
1849年(嘉永2年)2月から、蝦夷地へと出稼ぎに赴く[3]
1855年(安政2年)からは浜益の群別にニシン建網を開くようになったが、現地に定住していたわけではなく、漁期が過ぎると国元に帰る生活だった[3]
3代目・源右エ門
1873年(明治6年)、浜益村幌群別に移住[3]
4代目・源作
小樽市新富町に本拠地を移し、倉庫業や石油製造業を手掛けつつ、浜益の漁場も経営していた[3]
1892年(明治25年)の時点で、建網10カ統を経営する大親方となっていた[3]
1893年(明治26年)から1894年(明治27年)にかけて、自費を投じて濃昼山道の改修を行う[3]
1894年(明治27年)、満42歳で死去[3]。浜益漁場は長男の源三郎が継いだ[3]
5代目・哲男
1891年(明治24年)生まれ[3]。明治の末ごろ、分家して浜益漁場を取り仕切るようになる[3]
1932年(昭和7年)、濃昼に転住[4]
浜益村会議員を務め、「濃昼の親方」や「濃昼の殿様」とまで呼ばれたが[5]、他の親方衆のように小樽で別邸暮らしをするでもなく、番屋での生活を続けた[4][5]
6代目・源作
浜益村議会議員や濃昼部落自治会長を務めた[4]
1996年(平成8年)、代々続けてきた漁業を終える[6]
1997年(平成9年)、番屋に隣接していた煉瓦蔵を解体し、住宅を新設して移り住んだ[6]

建物の歴史

もともと存在していた左手の番屋に、1900年(明治33年)ころ、母屋が増築された[1]。棟梁を務めたのは津軽地方の人だが、完成を前にして裏山の木で首を吊ったと伝わる[1]和洋折衷のコンセプトを思うように実現できないことを苦にしたためと思われるが、それでも応接間を設けた住宅は当時非常に珍しく、周辺の村からも見物人が押し掛けたという[1]

最盛期には現存する番屋に加えて、食料倉、加工品を収蔵する倉庫、水揚げしたニシンを一時的に収納する「廊下」と呼ばれる倉庫、網倉など12の施設が付属していた[6]。また、建物前の広場は、海産物の干し場として用いられていた[6]

漁場としての役目を終えた後も、1996年(平成8年)までは木村家の住宅として使われていた[1]

1999年(平成11年)5月、元寿司職人の菅原夫妻が建物を買い取って移り住み、翌2000年(平成12年)7月には磯料理処「濃昼茶屋」としてオープンした[1][5]。しかしその後閉店し[5]、建物はさらに人手に渡ったという[6]

構造

脚注

参考文献

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