昌谷忠
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奄美大島の管鈍(後に鹿児島県大島郡西方村を経て、大島郡瀬戸内町の管鈍)出身[2]。旧名:昌(さかり) 忠二[3]。管鈍小学校[3]、古仁屋高等小学校[3]、鹿児島県立大島農学校(現鹿児島県立大島高等学校)予科[2]を経て、鹿児島県立川辺中学校(現鹿児島県立川辺高等学校)を卒業[2][3]。1906年(明治39年)東京・神田の東京外国語学校(現東京外国語大学)独語科に入学して[4]、ドイツ語を修め1909年(明治42年)に卒業[3]。京都帝国大学法科大学(現京都大学法学部)に入学した後、東京帝国大学法科大学(現東京大学法学部)に転入[3]。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業[2][3][5]。第一次世界大戦では、陸軍通訳として青島へ赴き、軍政部、守備軍民政部に属し、青島学院の講師・理事を兼ねたが、植民地政策になじみえず、戦争終結を機に外交官を志す[3]。1920年(大正9年)、高等文官試験に合格し外務省入り[3]。ドイツ大使館一等書記官、海口総領事などを務めた[5]。1939年(昭和14年)、外務書記官・外務大臣官房文書課長・翻訳課長・調査部第四課長、官報報告主任・統計主任となった[6]。1940年(昭和15年)、駐フィンランド公使に就任した[2][3][5]。第二次世界大戦下、中立国スウェーデンの駐日公使ウィダー・バッゲ(英語版)の協力を得ての和平工作に尽力[3]。1945年(昭和20年)退官[2][3]。退官後、国際法弁護士として極東軍事裁判で東郷茂徳元外務大臣を弁護した[3]。また、奄美群島の日本復帰運動を企図した全国奄美連合総本部と奄美連合東京本部の委員長も務めた[2]。1972年(昭和47年)5月28日午前3時20分、東京都文京区目白台の東京大学医学部附属病院分院にて脳動脈硬化症により死去(84歳没)[3]。墓所は、奄美大島の管鈍の浜と東京の多磨霊園[3]。
脚注
- ↑ 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会『新版 日本外交史辞典』山川出版社、1992年、343頁。
- 1 2 3 4 5 6 7 東京奄美会八十年史編纂委員会 編『東京奄美会八十年史』東京奄美会、1984年10月、28頁、310頁。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 昌谷忠海「奄美外交官の先駆――昌谷忠(一八八七~一九七二)」『哀惜無限 昌谷忠海追悼遺稿録』昌谷忠海追悼稿録刊行会、1990年9月、578-580頁。
- ↑ 『東京外国語学校一覧 従明治卅九年至明治四十年』東京外国語学校、1907年6月、63頁。
- 1 2 3 人事興信録 1941.
- ↑ 日本官界名鑑 1942.
参考文献
- 人事興信所編『人事興信録 第13版(上)』人事興信所、1941年。
- 日本官界情報社編『日本官界名鑑 昭和十七年版』日本官界情報社、1942年。
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