明治百年記念式典
明治100年を記念する式典
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明治百年記念式典(めいじひゃくねんきねんしきてん)は、明治への改元から100年となることを記念し、1968年(昭和43年)10月23日に日本武道館で挙行された日本政府主催の記念式典である。明治への改元が行われた明治元年9月8日(1868年10月23日)から満100年に当たる日に開催された。

昭和天皇・香淳皇后をはじめ、皇族、閣僚、国会議員、在日外交団、各界および青少年の代表ら約1万人が参列した。式典では、佐藤栄作内閣総理大臣の式辞、昭和天皇の「おことば」、衆議院・参議院・最高裁判所および在日外交団の代表による祝辞、NHK交響楽団による管弦楽演奏、青少年代表による「若人の誓い」、明治百年記念頌歌「のぞみあらたに」の合唱、日本体育大学学生による体育演技などが行われた[1]。
この式典は、佐藤内閣が1966年(昭和41年)から準備を進めた一連の明治百年記念行事・事業の中心となる政府主催行事であった。一方、政府が国家行事を通じて明治期以来の日本近代史を評価することに対しては、歴史学者や歴史教育者を中心とする反対運動も展開され、植民地支配や戦争への認識、国家と歴史研究との関係などをめぐる論争を伴った[2][3]。
背景
明治再評価論
第二次世界大戦後の日本では、1950年代後半から、戦後復興と経済成長の進展を背景として、明治期以降の日本の近代化を再検討しようとする議論が論壇で展開された。
桑原武夫は1956年(昭和31年)から「明治の再評価」を唱え、明治以降の約百年間を一つのまとまりとして振り返ることを提起した。桑原による明治の再評価は、明治期を単純に称賛するものではなく、日本が近代化を進めた過程で生じた成果と矛盾を、戦後の視点から捉え直そうとするものであった[4]。
竹内好は1960年(昭和35年)、明治維新から100年となる1968年を目標として、論壇が共通の課題として日本の近代化を検討する「明治維新百年祭」を提唱した。竹内の構想は、明治維新を祝うべきか否かをあらかじめ決めるものではなく、異なる立場の知識人が明治維新、日本の近代化、民族およびアジアとの関係をめぐって議論する場を設けようとするものであった[5][6]。
政府は後に、桑原と竹内の発言を、民間における明治再評価の機運を示す先行例として紹介した。しかし、政府の準備会議で両者の議論が直接参照された形跡は乏しく、政府が実施した明治百年記念行事は、両者の構想をそのまま具体化したものではなかった。竹内は政府主催による記念行事の実施が決まった後、自らの百年祭構想を撤回し、政府が文化・思想の領域へ介入することに反対する立場を示した[7]。
政府方針の決定
1960年代に入ると、民間団体、出版社、放送事業者、地方公共団体などの間で、明治百年に関連する行事や出版物を企画する動きが広がった[8]。
1966年3月16日、衆議院議員の押谷富三は、明治百年祭の開催時期などを問う質問主意書を提出した。これを受けて内閣は同月25日、明治百年記念準備会議を設け、記念式典・記念行事などの実施に関する基本方針を審議することを決定した[9]。
同年4月15日、閣議決定により総理府に明治百年記念準備会議が設置され、政府関係者、民間各界の代表者および学識経験者の計87人が委員に委嘱された[9]。
準備会議は同年5月11日に第1回全体会議を開き、式典を1968年10月23日に挙行することを決定した。5月26日の第2回全体会議では、委員を式典・行事・事業・広報の四部会に分け、それぞれの課題を審議することが了承された。四部会はそれぞれ4回または5回の会議を開き、11月2日の第3回全体会議で審議結果を報告した[10]。
準備
明治百年記念準備会議
明治百年記念準備会議は、内閣総理大臣以下の国務大臣など政府関係者20人、民間各界の代表者25人、学識経験者42人の計87人で構成された[11]。
準備会議には、式典部会、行事部会、事業部会および広報部会の四部会が置かれた。
式典部会は、ボーイスカウト日本連盟理事長の久留島秀三郎を主査とし、開催日、会場、参列者、式次第などを審議して「明治百年記念祝典実施要綱」を作成した。行事部会は、川西実三と高橋雄豺を主査として、講演会、展示会・祭典、長寿者や地域功労者の慶祝・顕彰、記念切手の発行などを検討した[12]。
事業部会は、三浦伊八郎と三村起一を主査とし、記念森林公園の建設などによる「国土の緑化」、博物館の建設や『明治天皇紀』の刊行などによる「歴史の保存・顕彰」、日本の青年を船で海外へ派遣する「青年の船」を、記念事業の主要な柱とした[12]。
広報部会は木村毅を主査とし、明治百年を記念する理由と基本理念を審議した。同部会は明治百年記念頌歌の募集を進めるとともに、政府の基本態度を示す「明治百年を祝う」を作成した。この文書は第3回全体会議で、準備会議の公式見解として承認された[13]。
開催日と会場の選定
式典の開催日については、明治天皇の践祚、大政奉還の勅許、王政復古の大号令、五箇条の御誓文の発布、明治への改元など、明治維新に関係する複数の日が候補となった[11]。
準備会議では、各候補日の歴史的・政治的意味や一般への分かりやすさが検討された。評論家の大宅壮一は、候補となった諸事件の中では、明治改元の日が比較的政治的意味の少ない日であるとの趣旨を述べた。最終的に、慶応から明治への改元が行われた旧暦明治元年9月8日に相当する10月23日が選ばれた[10]。
式典会場については、多数の一般参列者を収容するため、国立競技場や神宮外苑などの屋外会場も検討された。しかし、雨天時の混乱などを考慮し、屋内施設である日本武道館が選ばれた[8]。
政府は10月23日を国民の祝日や臨時の休日とはしなかった。これは、学校などにおいて明治百年の趣旨に沿った行事を実施しやすくすることを考慮したものであった[8]。国家公務員については、公務に支障のない限り、所属機関が同日午後の勤務を免除できる措置が講じられた[14]。
基本理念
準備会議広報部会が作成した「明治百年を祝う」は、政府の記念行事・事業に共通する基本態度を五つの観点から示した[8]。
その内容は、明治期に封建的制度から脱却して諸制度の改革を進め、近代国家形成への方向を確立したことを評価するとともに、改革を担った先人の自覚、勇気および努力に感謝するというものであった。また、明治以降の歴史における「過去の過ち」を反省し、百年間の発展と繁栄を評価しながら、高度な物質文明が自然や人間性に及ぼす弊害を是正する必要があるとした。
さらに、次代を担う青少年の努力に期待し、百年間の経験と教訓を現代に生かして、国際的視野から新たな世紀への歩みを確かなものにする決意を示した[8][15]。
政府の基本理念は、明治期の近代化を肯定的に評価する一方、過去の問題への反省や、経済成長に伴う社会・環境上の弊害にも言及していた。ただし、「過去の過ち」が具体的に何を指すのかは明示されず、後に歴史学者らから、植民地支配や侵略戦争への認識が不十分であるとの批判を受けた[16]。
世論調査と広報
政府は、記念行事の準備に国民の意見を反映させるとして、内閣総理大臣官房広報室による世論調査や、国政モニターからの意見聴取を実施した。
1966年7月の「明治百年記念行事に関する世論調査」では、明治百年記念行事についての認知、政府主催式典の要否、実施を希望する文化事業・青少年事業、明治以降の百年間に対する評価などが調査された[17]。
式典開催年の1968年3月には、「明治百年記念に関する世論調査」が実施された。「今年は明治百年記念の年ですが、ご存じですか」との質問に対し、回答者の91.6パーセントが「知っている」と回答した[18]。
政府は、新聞、ラジオ、テレビ、政府刊行物などを通じて式典と関連行事を周知した。地方公共団体、報道機関、出版社、文化団体、教育団体および経済団体も、独自の記念行事、特集、出版物、放送番組などを企画した[7]。
式典
会場と参列者
式典は1968年10月23日水曜日の午前10時30分から、東京都千代田区九段下の日本武道館で挙行された。
昭和天皇・香淳皇后、常陸宮正仁親王・正仁親王妃華子をはじめ、閣僚、国会議員、在日外交団、各界および青少年の代表ら約1万人が参列した[1][19]。
式次第
式典は、田中龍夫総理府総務長官による開会の言葉で始まった。参列者全員による国歌「君が代」の斉唱に続き、佐藤栄作内閣総理大臣が式辞を述べ、昭和天皇が「おことば」を述べた[1]。
続いて、小平久雄衆議院副議長、重宗雄三参議院議長、横田正俊最高裁判所長官、フレーチャ・トーレス駐日パラグアイ大使(在日外交団長)の順に祝辞が述べられた[1][20]。
祝辞の後、近衛秀麿の指揮によるNHK交響楽団が、ワーグナー作曲の楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』前奏曲を演奏した。
続いて、青少年代表の斎藤精一郎と相馬ルミ子が「若人の誓い」を読み上げた。当時、斎藤は日本銀行、相馬は日本石油に勤務していた[1][19]。
次いで、明治百年記念頌歌「のぞみあらたに」の合唱に合わせ、日本体育大学の男女学生約130人が体育演技「若人の躍動」を披露した。演技終了後、NHK交響楽団がヘンデル作曲の組曲『王宮の花火の音楽』を演奏した[1]。
最後に佐藤の発声によって万歳が三唱され、式典は午前11時20分に終了した[1]。官報記事は万歳の文言を記していないが、辻田真佐憲は同時代の式典記録に基づき、「日本国万歳」であったとしている[21]。
式典の演出
式典では、天皇の「おことば」、三権および外交団の代表による祝辞といった国家儀礼と、ワーグナーやヘンデルの管弦楽作品、「若人の誓い」、記念頌歌、集団体育演技が組み合わされた。
式典後半では、「若人の誓い」「のぞみあらたに」「若人の躍動」が続けて行われた。宮本司は、政府の基本理念において青少年が次代を担う主体として位置づけられたことと、こうした式典構成との関係を指摘している[15]。
明治百年記念頌歌「のぞみあらたに」の歌詞は一般から募集された。1966年11月2日の準備会議第3回全体会議で公募が決まり、4113点の応募作から岩手県の滝田常晴の作品が選ばれ、外山雄三が作曲した[22]。入選歌詞には、審査委員のサトウハチローと勝承夫が補作を施した[23]。
明治百年記念行事・事業
式典は、政府が計画した一連の記念行事・事業の中心に位置づけられていた。
準備会議では、展示会や講演会など一回限りの催しを「記念行事」、施設を伴いながら将来に継続していくものを「記念事業」として区別していた[10]。
記念行事
行事部会は、記念行事を四つの分野に分けて構想した。
第一は日本の近代化を主題とする国内外の研究者による講演会、第二は明治以降の百年間を資料や芸術作品によって示す展示会・祭典、第三は百歳以上の高齢者や地域社会の発展に貢献した人物に対する慶祝・顕彰、第四は明治百年記念切手の発行であった[12]。
これらの構想に関連して、関係省庁、地方公共団体、報道機関、文化・教育団体、経済団体などが、講演会、展覧会、出版、放送番組、スポーツ大会、郷土史編纂、功労者表彰などを実施した。学術誌や業界誌でも明治百年を主題とする特集が組まれ、明治期から当時までの制度、産業、教育、文化、科学技術などが回顧された[7]。
記念事業
事業部会は、将来に残る記念事業として、「国土の緑化」「歴史の保存・顕彰」「青年の船」の三本柱を定めた[12]。
「国土の緑化」事業では、記念森林公園などの公園緑地の整備が推進された。国営武蔵丘陵森林公園は、明治百年記念事業の一環として埼玉県の比企丘陵に整備された日本最初の国営公園で、1974年(昭和49年)に開園した[24]。

「歴史の保存・顕彰」事業では、日本の歴史・民俗資料を収集、保存、研究および展示する博物館の建設や、『明治天皇紀』の刊行などが計画された。1966年11月、準備会議は記念事業の一つとして、当初の事業名である「歴史民族博物館の建設」を採択し、閣議に報告して承認を受けた。この構想は、その後の検討と制度整備を経て、1981年(昭和56年)設置、1983年(昭和58年)開館の国立歴史民俗博物館へとつながった[25]。
「青年の船」事業は、日本の青年を船で海外へ派遣し、訪問国の青年との交流や研修を通じて、国際的視野と協調精神を養うことを目的とした。事業は1967年度(昭和42年度)に明治百年記念事業の一つとして開始され、その後、政府の青年国際交流事業へ継承された[26]。
地方公共団体などの行事
地方公共団体も、それぞれの地域と明治維新・近代化との関係を踏まえ、式典、記念公園・文化施設の整備、郷土史の刊行、展覧会、講演会などを実施した。政府の式典とは別の日に、都道府県や市町村が独自の記念式典を挙行した例もあった[27]。
鹿児島県では、1968年4月6日に県立体育館で鹿児島県明治百年記念式典を挙行した。この日は五箇条の御誓文の発布から満100年に当たり、当時の皇太子明仁親王と皇太子妃美智子が出席した[28]。
国、地方公共団体および民間団体による記念行事・事業は、合計で数千件に及んだとされる。ただし、これらには政府が直接実施した事業だけでなく、明治百年を契機として地方公共団体や民間団体が独自に企画したものも含まれていた[27]。
反応と論争
社会的な広がり
明治百年は、政府広報だけでなく、新聞、雑誌、放送、出版、展覧会、地域行事などを通じて広く社会に浸透した。学術分野でも、公衆衛生、体育、医学、産業、教育、歴史などの各領域で明治百年を冠した特集が組まれ、明治期以降の百年間を回顧する論考が多数発表された[7]。
一方、明治百年に対する高い認知度や多数の関連行事の実施は、政府の歴史認識や記念式典への一様な支持を意味するものではなかった。政府が明治期の近代化を国家的記念行事として評価することに対し、歴史学者、歴史教育者、教職員組合などから批判と反対運動が起こった。
歴史学界の反対運動
政府が記念式典の開催を決定した約5か月後の1966年10月、歴史学研究会が明治百年祭への反対運動を開始した。同年12月には「明治百年祭」批判臨時大会を開き、それまで歴史学関係団体が行ってきた紀元節復活反対運動を踏まえ、歴史研究者・教育者だけでなく、広範な団体と連携した運動を展開する方針を示した[29]。
1967年7月、歴史学研究会、歴史科学協議会および歴史教育者協議会は、反対運動を進めるための三者協議会を結成した。同協議会は同年10月25日に「『明治百年祭』反対運動に関するよびかけ」を発表し、全国の歴史学者や関係団体に共同で反対運動を展開するよう呼びかけた[30]。
反対運動に伴い、『歴史学研究』『歴史評論』『史潮』『史学雑誌』『日本歴史』などの学術誌が批判特集や関連論文を掲載した。各地方でも、教職員組合や歴史教育者協議会などを中心として反対集会が開かれた[30]。
1968年7月10日には、大阪歴史学会、大塚史学会、地方史研究協議会、土地制度史学会、日本史研究会、北大史学会および歴史学研究会の呼びかけにより、歴史学系54学会が「『明治百年祭』に関する声明」を発表した。
声明は、政府主催の記念事業について、政府による歴史の「国定解釈」を国民に押しつけるものであり、国民の自由な歴史意識の成長を妨げると批判した。また、日本近代史の評価は、歴史学の自由な研究を基礎として行われるべきだと主張した[31]。
同月29日には、家永三郎、板垣雄三、井上清、江口朴郎、遠山茂樹、永原慶二、野原四郎、旗田巍、松島栄一らを発起人として、反対声明への賛同者が募集された。
声明は総計3675人の賛同署名を得て、同年9月30日、内閣官房長官および総理府総務長官へ提出された[31]。
反対派の主張
反対派は、政府の基本理念が明治以来の百年間を進歩と発展の歴史として強調する一方、日本による植民地支配や侵略戦争への具体的な反省を欠いていると批判した。
また、準備会議に戦前の国体論や天皇中心主義に関わった人物が参加していること、『明治天皇紀』の刊行が記念事業に含まれていることなどから、記念行事を紀元節復活や天皇中心の国家意識を強化する動きと関連づけた[16]。
反対派はさらに、日本の近代化が労働者・農民からの収奪や、朝鮮・中国をはじめとするアジアへの侵略の上に成り立ったとして、政府が日本を非西洋地域における近代化の成功例として描くことを批判した。
女性、被差別部落の住民、沖縄県民、植民地支配を受けた地域の人々にとって、政府が示す「発展」が同じ意味を持つのかという問題も提起された[31][32]。
政府側は基本理念の中で「過去の過ち」への反省を掲げていたが、その具体的内容を明示しなかった。このため、政府が近代化の成果と将来への展望を強調したのに対し、反対派は、帝国主義、植民地支配、戦争および国内の差別・抑圧を含む近代日本の負の側面を具体的に検証する必要があると主張した[33]。
評価と研究
明治百年記念式典および一連の明治百年記念行事は、後年、戦後日本の歴史意識、近代化論、ナショナリズム、国家的メディア・イベント、集合的記憶などの観点から研究対象となった。
宮本司は、明治百年祭を、桑原武夫や竹内好ら戦後知識人による明治再評価論、政府が実施した式典・記念事業、政府行事に反対した歴史学者という三つの主体の関係から検討し、1960年代における日本の戦後思想史を考察する事例として位置づけている[34]。
宮本はまた、政府広報部会の議論について、明治以来の経済発展を記念する一方、物質文明による精神や人間性の荒廃を克服する主体として、日本的な精神・文化的価値を再発見しようとする構造があったと分析している[15]。
トパチョール・ハサンは、明治百年祭を、戦後日本における国家的メディア・イベントの一つとして扱っている。明治百年祭は、1964年(昭和39年)の東京オリンピックと1970年(昭和45年)の大阪万博との間に実施され、式典、新聞、出版、テレビ、映画、展覧会、記念施設、地方行事などを通じて、日本の近代化に関する記憶を全国的に提示した[35]。
トパチョールは、明治期に対する記憶は全国民に共通する一様なものではなく、社会階層、性別、地域、少数者としての立場などによって異なっていたと指摘し、明治百年祭を、政府の歴史像に対して異なる集団や地域の記憶が表面化した事例として位置づけている[36]。
歴史学者のニック・カプールは、明治百年記念行事について、佐藤内閣が国民的祝典として推進した一方、明治維新と近代化に対する肯定的評価を全国規模で広め、戦後日本におけるナショナリズムの再活性化との関係を持った行事として分析している[37]。
これらの研究では、明治百年記念式典は、単なる改元百周年の儀礼ではなく、高度経済成長期の日本が、明治以来の近代化、戦争の経験、国民統合および将来像をどのように整理して提示しようとしたかを示す出来事として位置づけられている。