久留島秀三郎

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生誕 中野秀三郎
(1888-09-11) 1888年9月11日
日本の旗 日本・京都府
死没 (1970-09-22) 1970年9月22日(82歳没)
日本の旗 日本・東京都中央区
国籍 日本の旗 日本
職業 実業家
くるしま ひでさぶろう
久留島 秀三郎
久留島秀三郎(1954年頃)
生誕 中野秀三郎
(1888-09-11) 1888年9月11日
日本の旗 日本・京都府
死没 (1970-09-22) 1970年9月22日(82歳没)
日本の旗 日本・東京都中央区
国籍 日本の旗 日本
職業 実業家
著名な実績 同和鉱業社長
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久留島 秀三郎(くるしま ひでさぶろう[1][2]1888年9月11日 - 1970年9月22日)は京都府出身の日本実業家作家。鉱山技師で工学博士でもある。同和鉱業社長、日本科学技術連盟第5代理事長ボーイスカウト日本連盟第5代総長など多くの要職を務めた。義父は児童文学者久留島武彦従三位[3]

1888年(明治21年)9月11日、京都で薬種商を営んでいた父(六代)中野忠八[4]と母みねの間に生まれた[1]。次男ではあったが、曾祖父の幼名であった秀三郎の名を受け継いだという[5]京都修道小学校第三高等小学校を卒業[5]

京都第二中学校に進学するも5年半をかけて卒業できず[5]、1905年(明治38年)に上京し日本中学校に転校した[6]。姉婿の勧めで帝国大学を目指し、1年の浪人ののち第三高等学校二部甲に入学[7]。しかしボート部にかまけて学業がおろそかになったため、新設されたばかりで入学試験の無い[8]九州帝国大学工科大学採鉱学科に進学した[6]1914年(大正3年)7月[9]に同大学を卒業[1]

卒業後ただちに南満洲鉄道に入社[9]、同年12月より1916年6月まで陸軍工兵中尉として兵役・勤務演習を務めた[4]1916年(大正5年)9月に農商務省に入省、自ら志願して鉱山局札幌鉱務署に勤務した[10]。この頃、実兄の(七代)中野忠八と久留島武彦は共にボーイスカウト活動を推進しており[11]、その縁で武彦の長女・福子と秀三郎を結婚させて久留島家を相続させることになった。1918年(大正7年)4月に東京大神宮で挙式を行い[12]、秀三郎は久留島姓となった[11]

1920年(大正9年)6月14日未明[13]夕張炭鉱で発生した爆発事故において、炭坑内に200名以上が取り残されていたが、時間経過を考慮して生存者はいないと判断し、鎮火のため坑道への注水を命じた[10]。この判断の責任を負い[13]、自ら辞表を提出して農商務省を退官した。

その後まもなく、撫順炭鉱の副所長であった久保孚のあっせんで南満州鉄道に復帰し、鞍山製鉄所で採鉱課長の座に就いた[13]。大孤山と呼ばれる鉄坑で、液体酸素爆薬を用いた露天掘りの試験を続けていたところ、1929年(昭和4年)10月24日に死者36名を出す爆発事故[14]に巻き込まれるものの軽傷で生還した。久留島はこの事故の犠牲者に報いるべく安全な発破方法を研究[15]し、1932年(昭和7年)に日本鉱業会渡辺賞を受賞した[16]

1927年頃の久留島

1932年(昭和7年)、製鉄所の苦力頭を務め久留島にとっても長く部下であった呉國壁が煙台馬賊の頭目となったという話題が満洲で広まった[17]。この話を聞いた久留島は、真偽を確かめるため同年3月17日に煙台へ赴いたところ、呉によって拘束された[18][19]。鞍山独立守備隊の味岡部隊が救出に動くなど騒動になったものの、久留島は呉の説得を試み[注釈 1]、3月21日には鞍山に戻った[22]。直後の4月[23]、呉は自身の所持していたピストルが暴発して死亡した[24]

1933年(昭和8年)5月には鞍山製鉄所が会社化した昭和製鋼所で取締役採鉱部長となり、さらに1936年(昭和11年)6月には満洲鉛鉱の常務取締役・社長代行に就任した[3]。しかし、1937年に南満州鉄道の首脳陣と増産計画についての意見対立が生じ、満州での全ての職を辞して日本に帰国した[25]

同年に東洋鉱山の取締役となり、さらに1940年(昭和15年)6月に昭和鉱業の取締役となると、専務取締役・副社長を経て1944年(昭和19年)5月に取締役社長に就任した[3]1946年10月、同和鉱業の取締役社長となり[26]、1963年(昭和38年)まで務めた[27]。社長退任後は、生涯相談役の立場にあった[25]

社長業の傍ら、鉱物資源に関する研究論文を執筆し、1956年(昭和31年)7月[3]に学位論文『鉱物資源の完全活用に関する工業的研究』により、東北大学から工学博士を授与された[28]

1969年(昭和44年)11月には、勲二等瑞宝章を受章した[3][29]

1970年(昭和45年)9月22日午後7時15分、入院中の聖路加国際病院にて肺炎のため82歳で死去[30]。同月27日に、ボーイスカウト日本連盟の連盟葬として[31]東京・中央区築地本願寺で告別式が営まれた[32]。葬儀委員長は石坂泰三が務め、供花は辞退していたものの当時の皇太子夫妻からの供菓や内閣総理大臣佐藤栄作をはじめ多くの献花が並び、三笠宮崇仁親王が焼香に訪れた[33]勲一等瑞宝章が死後追贈され、従三位に叙された[3][29]

社会貢献

昭和鉱業社長就任後、久留島は多くの業界団体、公的機関、会合の役職を歴任した。

1948年(昭和23年)、日本鉱業協会の創立とともに初代会長に就任した[34]。久留島はその後1955年、1961年と都合3回会長を務めた[35]

1953年(昭和28年)には、日本科学技術連盟理事長に就任した[36]

1956年日本国有鉄道理事、産業計画会議委員(議長・松永安左ヱ門)就任。

1959年(昭和34年)2月、母校である日本学園の理事に就任し[37]、1961年(昭和36年)4月には校長兼理事長となった[38]。1965年には中央教育審議会の委員となった[39]。1969年4月に病気のため校長・理事長を辞任し、学園から名誉校長の称号が贈られた[40]

ボーイスカウト

久留島はボーイスカウト活動への貢献でも知られる。

1916年、「京都少年義勇軍」の少年たちとともに、日本のボーイスカウトによる初野営(キャンプ)が琵琶湖畔の雄松崎(滋賀県志賀町)を実施。(現在、同地には『日本ボーイスカウト初野営の地』記念碑が建てられている。)

1950年ボーイスカウト日本連盟理事に就任。1954年、ボーイスカウト日本連盟理事長に就任。

1966年、ボーイスカウト日本連盟の第5代総長に就任。

1971年[要検証]静岡県朝霧高原で行われた第13回世界ジャンボリーの後、ボーイスカウト日本連盟の正式英語名を "Boy Scout of Japan" から "Boy Scout of Nippon" とすべきだと主張し、議論の末にこれが定着した(なお、英語表記は2001年に "Scout Association of Japan" に変更された)。

また、神奈川県横浜市の「こどもの国」に「無名のスカウト戦士(Unknown Soldier)」のトーテムボール・彫像を建てる活動を推進した。

ユーゴスラビアとの関係

久留島は1953年(昭和28年)10月にユーゴスラビアを訪問し、国連の技術指導員として鉱山開発の指導にあたった[41][3]。これ以降、都合12回にわたってユーゴスラビアを訪れ、また日本・ユーゴスラビア協会の会長として両国の友好に貢献した[25]。こうした功績により、1957年にはユーゴスラビア勲二等国旗章を授与された[3]

生前最後となった1968年のユーゴスラビア訪問時には、当時のヨシップ・ブロズ・チトー大統領がブリユニの別荘に久留島を招く歓待ぶりであった[42]

家族

  • 実父・(六代)中野忠八(安政6年<1859年9月4日 - 明治37年<1904年>5月11日)[43]
    • 和泉国の素封家赤坂哲四郎の四男として生まれた[44]。幼名篤五郎[43]。明治7年(1874年)12月[43]に、京都・建仁寺寺町通五条で薬種・砂糖商「大忠」[45]を営んでいた大和屋中野忠八の養子となった[46]。明治12年(1879年)に家督を相続、明治15年(1882年)には妻・みねと結婚し養父の名を襲名して六代忠八となった[43]。京都薬品試験所の設立に参画、内科医としても活動したほか、明治25年(1892年)から京都市会議員、明治35年(1902年)には京都府議会議員[43]、また京都商工会議所理事などを歴任した[46]。娘婿の谷井千次郎を訪ねて都内滞在中[47]丹毒[43]のため死去[45][48]
  • 実母・中野みね(峯)(? - 1915年2月6日)[45]
    • 五代中野忠八の長女[43]
  • 実兄・(七代)中野忠八(1884年10月10日 - 1949年8月27日)
    • 六代忠八の長男、幼名・忠三郎[48]。旧制第三高等学校に進学したが父の急逝に伴って京都薬学校に転学[44]、名跡と事業を継ぎ、のちに日本薬剤師会副会長、京都薬大理事長[49]などを務めた。ボーイスカウト日本連盟理事など、ボーイスカウトへの貢献でも有名。腸炎のため数え66で死去[50]
  • 実弟・中野誠一(1897年10月 - 1941年11月5日)
  • 実弟・中野忠二郎(1902年12月1日 - 1977年9月25日)
  • 義父・久留島武彦 - 児童文学者。
  • 妻・福子(1902年3月 - 1966年8月5日)
  • 長女・通子(1919年3月生)[1]
  • 次女・晃子(1920年3月生) [1]
  • 三女・公子(1922年2月生)[1]
  • 長男・小千彦(1925年7月7日生)

著書

脚注

参考文献

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