星松三郎
From Wikipedia, the free encyclopedia
宮城県[2]登米郡、のちの佐沼町[4][5][6][7](迫町を経て現登米市迫町佐沼)で、商人・星松治郎の第七子(二男)として生まれた[1][3][4][5][7][8]。村の儒者・中村竹徑に師事し[3]、さらに英学を修めた[2][6][7]。1875年(明治8年)から水害救民救恤係、勧業世話役、衛生委員、学校世話役などを務めた[2][7]。
その後上京して商業を営む[4][5][7]が不景気となり[7]、1884年(明治17年)から1886年(明治19年)にかけて全国の民情視察を2回実施して、その報告書を作成して頒布した[7][8]。1886年10月には欧米の政治経済の視察旅行を行った[1][3][4][5][7][8]。
1885年(明治18年)芝区会議員に当選[7]。1890年(明治23年)6月、東京市会議員に当選[1][7]。以後、東京市参事会員、同市公園改良臨時委員、同市学務委員、芝区学務委員、東京水道常設委員、芝区学校建築委員長、芝区学務委員長、芝区会議長代理者、徴兵参事委員などを務めた[2][4][5][6][7][8]。
1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(東京府第2区、進歩党)で初当選し[1][4][5]、以後、第6回総選挙(東京府第2区)、第9回総選挙補欠選挙(宮城県郡部)で再選され、衆議院議員に通算3期在任したが[2][6]、議員在任中の1906年4月18日に死去した[9]。墓所は青山霊園。
実業界では、新橋銀行頭取、品川電燈社長、帝国水産専務取締役、日本織物専務取締役、日本木材監査役、宮城商行銀行監査役、十二商品取引所監査役などを務めた[1][2][3][4][5][6][7]。
国政選挙歴
- 第1回衆議院議員総選挙(宮城県第4区、1890年7月、無所属)次点落選[10]
- 第2回衆議院議員総選挙(宮城県第4区、1892年2月、立憲改進党)次点落選[10]
- 第4回衆議院議員総選挙(宮城県第4区、1894年9月、無所属)落選[11]
- 第5回衆議院議員総選挙(東京府第2区、1898年3月、進歩党)当選[12]
- 第6回衆議院議員総選挙(東京府第2区、1898年8月、憲政本党)当選[12]
- 第7回衆議院議員総選挙(東京府東京市、1902年8月、憲政本党)落選[13]
- 第8回衆議院議員総選挙(東京府東京市、1903年3月、憲政本党)落選[13]
- 第9回衆議院議員総選挙(東京府東京市、1904年3月、憲政本党)落選[13]
- 第9回衆議院議員総選挙補欠選挙(宮城県郡部、1905年5月、憲政本党)当選[14][15]
著作
- 『親察録 東海東山北陸之部』1886年。