晋州城攻防戦
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第一次攻防戦
背景
晋州城は全羅道への入口を防衛する重要な城郭都市であった。宇喜多秀家と細川忠興は、この城を占領すれば全羅道への新たな進路が開かれ、またその地域に潜伏していた郭再祐のゲリラ勢力を攻撃できると考え、晋州城攻略に同意した。さらに全羅道は豊富な略奪対象が存在する地域でもあった。宇喜多はまた、晋州城への要地である小規模な城砦である昌原の再占領にも同意した。このため、昌原および晋州城を攻略するための3万の軍勢が出発した。日本軍第七軍団は11月8日に晋州へ到着し、加藤光泰、長谷川秀一、細川忠興(長岡忠興)、木村重茲らの指揮下にあった3万の兵力で構成されていた[1]。
日本勢は晋州城攻略のために細川忠興、長谷川秀一、木村重茲などの20,000弱の軍勢を編成し、釜山を出発して9月23日に昌原を攻めた。慶尚右兵使の柳崇仁は官軍および収容した敗兵を指揮して抵抗したが日本軍に敗した。
長谷川秀一・長岡忠興らは、9月24日に兵力を率いて集結地である金海を出発し、露峴・昌原・咸安を経由したのち、馬峴と仏遷に分かれて進入した[2]。
第一次攻防戦
10月4日、日本軍の先鋒約1,000騎が晋州東方の馬峴北峰に出現すると、金誠一は老若男女を動員して武装させ、日本軍の侵入に備えた[2]。
日本軍は総攻撃を敢行し、竹で作った梯子を城壁にかけて城内へよじ登り、さらに三層の高さを持つ攻城櫓を築いて車輪を付けて押し進め、そこから鉄砲や矢を城内へ浴びせかけた。この際、朝鮮軍は玄字銃筒を用いて攻城櫓を破壊した。また、松の枝を高く積み上げた丘を見て、日本軍が堀を埋めるための策であると見抜いた後、火薬袋に火を付けて松の枝の山をすべて焼き払った[3]。
敗走した柳崇仁は後方の晋州城へ入ろうとするが、これまで準備してきた指揮系統の混乱を懸念した部下であり守将の晋州牧使・金時敏は、「城外に留まり晋州城を支援してほしい」と述べ、入城の要請を受け入れなかった。柳崇仁もその判断に従った。その結果、増援軍は日本軍との戦闘において全滅した。[4]。
5日、日本軍は三つの部隊に分かれ、一隊は東門外の順天堂の山上に陣を敷いて城を見下ろし、別の一隊は開慶院から東門を経て鳳鳴楼前に陣を構え、さらにもう一隊は郷校裏山から順天堂を経て鳳鳴楼前の部隊と合流した。鉄砲隊は城内に向けて銃撃を浴びせ、また仮小屋を築いて夜には火を焚き士気を高めた[2]。
その夜、郭再祐は沈大升を派遣し、義兵200余名を率いて郷校裏山に登らせた。彼らはそこで松明を掲げ、法螺貝を吹いて日本軍の背後を脅かした。7日には敵軍が一日中銃弾と矢を放ち、8日には攻城用の竹梯と三層の楼閣を築いて侵攻してきた[2]。
これに対し金時敏は玄字砲を発射し、日本軍が城の堀を埋めるために集めていた松枝や竹梯を、藁で束ねた火薬に点火して投げ入れ焼き払った。また移動中の攻城楼を長柄の斧や鎌で破壊しながら日本軍を攻撃した[2]。
さらに古城の臨時県令趙凝道と晋州の伏兵将鄭惟敬は、夜陰に乗じて兵士500余名を率いて晋峴峠に上り、敵を威嚇した。9日には城外に駐屯していた陜川仮将金俊民・鄭起龍・曺慶亨らが日本軍と対峙し、また義兵将崔慶会・任啓英も救援兵2,000余名を率いて到着し、日本軍を牽制した[2]。
金時敏は部下の兵を指揮するだけでなく、妻とともに自ら食料を携えて城内を巡り兵士に分け与え、昼夜を問わず奮戦したため、朝鮮軍は皆その姿に感激し、死を覚悟して戦ったとされる[3]。
9日、日本軍は二手に分かれ、一隊は北門外から攻め込み、もう一隊は東門を攻撃した。彼らは長梯子を用いて城壁をよじ登り、その後方からは騎兵約1,000騎が鉄砲を乱射しながら突撃した。 このとき金時敏は東門北側で指揮を執り、判官成守慶は東門の甕城で軍を統率した。朝鮮軍は弓矢・震天雷・蒺藜砲・石塊や焼いた鉄片を投げつけ、さらに熱湯を注ぎ、あるいは藁に火を付けて投げ込むなどして、日本軍の攻撃を防いだ[2]。
激しい戦闘が終盤に差しかかった頃、城内における日本軍の遺体を確認していた金時敏は、その遺体の間に潜んでいた日本兵が放った流れ弾を額に受け、倒れた。敗北を受け入れた日本軍は撤退を開始したが、守城の指揮官を失った晋州城では、昆陽郡守李光岳が代わって指揮を執り、奮戦を続けた。金時敏の容体は悪化し、そのまま死去すると、晋州城は深い悲しみに包まれ、まるで父母の喪に服するかのような哭泣が響いたとされる。また城内の軍民は1年以上にわたり粗食を続けたと伝えられている[3]。
第一次攻防戦における日本・朝鮮両軍の編成
日本軍
- 等 約30000人
朝鮮軍
- 晋州城守備金時敏 3800人
- 後詰の軍 3700
その他
文禄・慶長の役の後、金時敏の甥である県監の金維が晋州地方を通りかかり、ある草屋に一泊したところ、年老いた家主と名を交わすうちに彼が金時敏の甥であると知った家主は驚いて立ち上がり、その手を取って涙を流し、さらに滞在を請うて牛を屠ってもてなしながら「金様のご恩をどうして忘れられましょうか」と語り、自らがかつて知印として金時敏に近侍し倭寇と戦ったことを明かし、その時の戦いの様子を金維に詳しく伝えたという[5]。
第二次攻防戦
| 第二次晋州城攻防戦 | |
|---|---|
加藤清正が晋州城を攻撃している様子(1890年頃の日本の挿絵) | |
| 戦争:文禄の役 | |
| 年月日:文禄2年(1593年)6月21日から29日 | |
| 場所:朝鮮国慶尚道晋州 | |
| 結果:日本軍の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 指導者・指揮官 | |
| 官軍 慶尚右兵使 崔慶会 † 民兵 |
1番隊 4番隊 |
| 戦力 | |
| 官軍 6,000人 民兵 2,800人 民間人 3万〜8万[6] |
1番隊: 25,000人 2番隊: 26,000人 3番隊: 18,000人 4番隊: 13,000人 5番隊: 8,000人 総計 90,000人 |
| 損害 | |
| 全滅 | 38,000人戦死[7] |
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第二次攻防戦直前の状況
和平交渉が進展し日本軍の主力が漢城から釜山周辺へ移動した事で兵力と補給の問題が解消したため、和平条件でもあった朝鮮半島南部の獲得を既成事実とするため、晋州城方面と全羅道の征服を図った。
第二次攻防戦
日本軍は約4万3千の晋州城攻略軍を編成し、包囲を宇喜多秀家、加藤清正の部隊に担当させ、小西行長、毛利秀元、小早川隆景の部隊に城普請と拠点での在番を割り当てた。
攻城戦前、晋州城東北方の星州に明副総兵・劉綎兵五千、周辺にも善山に游撃・呉惟忠兵五千、南原に参将・査大受、駱尚志、游撃・宋大斌兵六千、居昌に副総兵・祖承訓、游撃・李寧、葛逢夏と慶州に副総兵・王必迪の兵若干、約三万余の明軍を各地に駐屯した。 6月14日、宜寧に集結していた朝鮮都元帥・金命元、平安巡辺使・李薲、全羅巡察使・権慄、全羅兵使・宣居怡、防禦使・李福男、助防将・李継鄭、鄭名世、慶尚左兵使・高彦伯、右兵使・崔慶会、忠清兵使・黄進、京畿助防将・洪季男、星州牧使・郭再祐、倡義使・金千鎰、義兵・高従厚などの李朝軍5万余は咸安に到着して日本軍の進軍を止めさせたが[8]、日本軍先鋒隊の立花宗茂、高橋統増と小早川秀包と共に兵4千でこれを敗走させた[9]。朝鮮軍の一部は15日に全州へ撤退し、金千鎰を主に一部の朝鮮軍は晋州城に入った。このため日本軍は昌原より咸安と宜寧を通過して晋州城へ進軍した。
対する守城側では意見がまとまらず、籠城を主張する倡義使・金千鎰(義兵)に対し、明軍は晋州城防衛に不同意であり、朝鮮軍でも方針は分裂し西人派は籠城を主張し東人派は消極的だった。最終的に晋州城内へ集結した兵力は李氏朝鮮軍約7000と避難民だけであった。
6月21日に日本軍は晋州城を包囲すると、攻城用の高櫓を作り、濠の水を南江に落とす土木工事を始める。22日から本格的な包囲と工事普請が始まる。加藤清正ら一番隊と宇喜多秀家ら三番隊が包囲、小西行長らの部隊は後方支援と輸送、毛利秀元、小早川隆景らは朝鮮半島南部で恒久的な城の普請を始めた。
6月27日には宇喜多秀家が降伏勧告を行ったが李氏朝鮮側は拒絶、29日に亀甲車を用いて城壁を突き崩すと、黒田長政配下の後藤基次や加藤清正配下の森本一久らが先を争って突入し晋州城を攻略した。
陥落した晋州城では、倡義使・金千鎰、その子・金象乾、慶尚右兵使・崔慶会、忠清兵使・黄進、晋州府使・徐礼元、義兵将・高従厚、金海府使・李宗仁、巨済県令・金俊民などの武将が戦死した。
戦後の経緯
晋州城を攻略した日本軍は直ちに全羅道へ進撃し、7月5日には求礼、7日には谷城へ進出した。しかし、南原の守りが堅いと見ると9日には晋州城へ撤退した。 攻略戦の最中、日本軍は恒久的在陣のため朝鮮半島南部に拠点の築城が開始され、晋州城は撤退時に破却された。
『問註所家譜』により文禄2年(1593年)9月2日、問註所統景・問註所正白兄弟は小早川秀包の先鋒になって晋州城外南西方向河東郡 (慶尚南道)へ向かって二十里ほど前進する際、明の劉綎と遭遇し数百兵が戦死した、宗茂は敗れた小早川軍を救援のため劉綎と対戦し、劉綎は敗れて晋州城に返る[10]。
宣祖は晋州城陥落の原因として沈惟敬による講和交渉を指摘し、明朝廷がその実情を十分に把握していないことを憂慮した。そこで黄璡を通じて明の礼部と兵部に書簡を送り、日本は狡猾で凶悪な敵であるため講和すべきではなく、豊臣秀吉は自国の君主を殺害し、隣国を侵略した人物である以上、明が日本の朝貢を受け入れてこれを容認してはならないと主張するよう求めた。また、沈惟敬が講和を主張したことで戦局を誤った事実についても密かに言及し、明朝廷が朝鮮の事情を把握したうえで対応策を講じられるようにした。このため宣祖は、崔岦に書簡を作成させたうえで黄璡に送り、これを明に提出する方法について協議するよう指示した[11]。
第二次攻防戦における日本・李氏朝鮮両軍の編成
日本軍 42491人[12]
李朝軍
- 晋州城官兵 約7000人
- その他 約13000人
朴熙奉は『日本戦史・朝鮮役』をもとに、1592年4月の壬辰倭乱の勃発から1593年6月の第二次晋州城攻防戦の開始前までの日本軍の損害を推定し、この時点までに参戦が確認されている日本軍22万4,774人のうち、10万人以上が死亡したとした。さらに、第二次晋州城攻防戦で約3万8,000人が追加で死亡したと推定し、死者総数を約13万8,000人と算定した。これに基づき、壬辰倭乱に参戦した日本軍の60%以上が死亡し、戦争終結後に日本へ帰還した兵力は9万人以下だったと主張している。また、1593年6月の戦闘終結後に残存した日本軍と名護屋の予備兵力を合わせた14万8,754人、さらに1597年の丁酉再乱で動員された14万1,490人と比較し、壬辰倭乱において日本が被った人的損害は非常に大きかったと評価している[13]。