景浦賢一
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松山商業(現・愛媛県立松山商業高等学校)在学中は、甲子園出場は無かった。松山商業卒業後、1941年3月20日に朝日軍に入団[1]。同年7月18日の大洋戦(甲子園球場)でデビューし、初打席初安打をマークした。しかし、デビュー戦でも失策して相手に決勝点を与えたように、守備に難があり、レギュラー定着には至らなかった(1942年には38試合出場で、8失策を記録している)。1943年シーズン終了後、現役引退した。
引退後の1945年に兄・將が戦死(戦病死とも餓死とも伝わる)して、松山の実家に骨壺が届けられたが、甥の景浦隆男と共にインタビューで「石ころが3つ入っていた」「こんなものが人ひとりの命なのか……」と語っている。