進士に及第した。天宝末年、安禄山の推挙により河北海運判官となった。三度異動して大理寺評事となり、副元帥の郭子儀に召し出されて従事をつとめた。至徳元載(756年)、粛宗が即位すると、暢璀は推薦を受けて諫議大夫に任じられた。吏部侍郎に転じた。広徳2年(764年)12月、左散騎常侍・河中尹となり、御史大夫を兼ねた。永泰元年(765年)、左散騎常侍のまま、裴冕とともに集賢院待詔をつとめた。大暦5年(770年)、判太常寺事を兼ね、戸部尚書に転じた。大暦10年(775年)7月、死去した。太子太師の位を追贈された。
子に暢当があった。