暴昭
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洪武年間に国子監の学生から大理寺の司務となった。洪武30年(1397年)には刑部右侍郎、さらに翌年には刑部尚書に昇進する。正直かつ節操の固い人物で、倹約家で知られた[1]。
建文元年(1399年)に北平の採訪処置使となると、燕王朱棣(のちの永楽帝)が反乱を目論んでいることを察知し、備えるよう都に密書を送った。靖難の変が起こると、建文帝は真定府に平燕布政使司を設置した。暴昭は刑部尚書とその司使を兼ねることとなり、鉄鉉らとともに任にあたった。しかしながら、平安らの部隊が敗走すると、暴昭も都に呼び戻された。南京陥落後、逃亡を図るも捕らえられ、永楽帝に屈さず凌遅刑に処された[2]。
野史に取材した本は、処刑の際、永楽帝を罵ってやまなかったため、歯を抜かれ、四肢を切り落とされたうえ首を刎ねられたとする[3]。