鉄鉉

中国の明の官僚・将軍 From Wikipedia, the free encyclopedia

鉄 鉉(てつ げん、1366年 - 1402年)は、の官僚・将軍。鼎石鄧州穣県出身の色目人建文帝に仕え、靖難の変永楽帝によって処刑された。後代になって、各地の鉄公祠中国語版に祀られた。南明時には太保の称号と忠襄を、代の乾隆年間には忠定の諡を追贈された。

生涯

鉄仲名と薛氏のあいだの子として生まれた。洪武年間、国子生から礼科給事中に任じられ、その後は司法官である都督府断事とされた。疑獄事件に巻き込まれたこともあったが、速やかに潔白を立証したことで洪武帝に信任され、「鼎石」の字を賜った[1][2]

1399年建文元年)に発生した靖難の変では建文帝を支持した。李景隆の北伐にあたっては山東参政として兵糧の支援を行い、決して補給を絶やさなかった[3]1400年(建文2年)4月、李景隆が白溝河の戦いで燕軍に敗北すると、鉄鉉は臨邑から済南に移り、高巍盛庸・宋参軍らとともに籠城した。燕軍の包囲に対し、鉄鉉らもよく防衛した[4]。朱棣が矢文で降伏を勧めると、鉄鉉は伏兵を潜ませた上で1000人を偽降させた。これに騙された朱棣は入城しようとしたところを急襲され、あわやのところで退却したという[5][6][注釈 1]。怒った朱棣は大砲で城を攻めようとするも、鉄鉉が「洪武帝神牌」と書いた木札を城に掲げたため、それに向かって撃つわけにもいかず、砲撃を断念せざるを得なかったとする本もある[7][注釈 2]。燕軍は3カ月にわたって済南城を攻撃したがついに落とすことはできず、8月に包囲を解いて撤退した。済南城防衛の軍功により、鉄鉉は山東布政使に抜擢された。12月、兵部尚書に進んだ[8]

1402年(建文4年)3月、大店で燕将の譚清を包囲したが、燕王朱棣自らの援軍を受けて鉄鉉は敗れた。8月、鉄鉉は捕えられ、永楽帝に面会したが屈することなく処刑された[9]。享年は37[10]

処刑の際の逸話として、鉄鉉は永楽帝に背を向けたまま罵り続け、一瞥をくれることもなく死に就いた[11]、耳や鼻を削ぎ落として炒ったものを口にねじ込まれて、味を問われると「忠臣孝子の肉が甘美でないことがあろうか!」と返した[12][注釈 3]、死体を油で釜茹でにする準備をさせた上で、宦官たちに命じて死体を自分の方に向き直らせたところ、油が突然沸き立って多くの宦官が火傷を負い、その時の弾みで鉄鉉の死体はまた永楽帝に背を向けた[13]などといったものが残っている。

鉄鉉の子の鉄福安は河池で兵役につかされ、父母は海南島に流された。妻の楊氏と娘たちは教坊司に送られたが、楊氏は病死し、ふたりの娘は辱めを受けず、後に士人に嫁いだ[14]

万暦年間の初め、建文帝の忠臣を祀る詔があり、鉄鉉を含む7人の忠臣の廟が建てられた。南明弘光年間には太保の称号と「忠襄」の諡が追贈された[15]康熙帝は、さらに「忠定」の諡を追贈した。山東省各地や済南の大明湖畔に残る「鉄公」の廟は、いずれも鉄鉉を祀ったものである。

脚注

参考文献

関連項目

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