曹確
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曹景伯の子として生まれた。開成2年(837年)、進士に及第し、節度使の属官を歴任した。入朝して侍御史に任じられ、工部員外郎・知制誥となり、工部郎中に転じた。宮中に入って翰林学士となり、中書舎人に任じられ、紫金魚袋を賜った[1][2]。大中11年(857年)、権知河南尹事となった[3]。入朝して兵部侍郎となり、判度支をつとめた[4]。
咸通4年(863年)、曹確は中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)となり[5][6]、監修国史をつとめた。曹確は儒学に詳しく、器量や見識を重んじて、法度を遵守した[1][2]。咸通5年(864年)、本官のまま工部尚書を兼ねた[7][8]。咸通8年(867年)、懿宗が楽官の李可及を左威衛将軍に任じようとすると、曹確はこれを諫めた。懿宗は諫言を聞き入れなかった[9][10]。この年の10月、曹確は門下侍郎・同平章事となり、吏部尚書を兼ねた[11][12]。咸通11年(870年)、本官のまま尚書左僕射を兼ねた[13]。宰相を退任し、検校司徒・同平章事・潤州刺史・浙江西道観察等使として出向した[14]。龐勛の乱を討った功により、太子太師を加えられた。のちに河中節度使に転じ、死去した[15][16]。