曹英
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曹全武の子として生まれた。はじめ成徳軍節度使の王鎔の幕下に属した。天祐18年(921年)、張文礼が鎮州で乱を起こすと、晋王李存勗が鎮州を占領し、曹英は散指揮使に任じられた。後唐の天成元年(926年)、明宗が即位すると、曹英は本班の行首に抜擢され、厚遇された。後晋の天福年間、弩手軍使に転じた。張従賓の乱が汜水関で鎮圧されると、曹英は功により弩手軍都校に任じられた[2]。
天福12年(947年)、後漢が建国されると、曹英は奉国軍主となり、検校司徒を加えられ、康州刺史を遥領した。乾祐元年(948年)、河中節度使の李守貞が反乱を起こすと、曹英は行営歩軍都校に任じられた。乾祐2年(949年)、李守貞の乱が鎮圧されると、曹英は奉国軍廂主に転じ、岳州防禦使を遥領した。郭威に従って大名府に赴き、北面行営歩軍都校となり、内乱鎮圧に従事した[3]。
広順元年(951年)、後周が建国されると、曹英は推戴の功により昭武軍節度使を遥領し、検校太傅・侍衛親軍歩軍都指揮使に任じられた。広順2年(952年)春、総兵を率いて泰寧軍節度使の慕容彦超の乱を討った。5月、太祖郭威が親征し、兗州を攻め落とした。凱旋すると、曹英は彰信軍節度使に転じた。顕徳元年(954年)、世宗柴栄が即位すると、曹英は同平章事を加えられ、成徳軍節度使となった。世宗が太原府から帰ると、曹英は侍中を兼ねた。冬、鎮州で死去した。享年は49。中書令の位を追贈された[3]。