張従賓
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はじめ後唐の荘宗に仕えて小校となり、従軍して功績があった。天成年間、奉聖軍指揮使から澄州刺史を遥領し、左羽林軍都校に転じた。長興元年(930年)、薬彦稠に従って楊彦温を河中府で討ち、これを平定した。長興年間、寿州節度使に任じられ、検校太保・侍衛親軍歩軍都指揮使を加えられた。従賓は明宗に進言して、聞き入れられることが多かった[1]。応順元年(934年)、涇州節度使として出向し、検校太傅を加えられた[2]。
後晋の天福元年(936年)、高祖石敬瑭が即位すると、従賓は入朝して、東都巡検使をつとめた[3]。天福2年(937年)6月、范延光が興唐府に拠って反乱を起こすと、従賓は魏州四面行営副都部署に任じられて[4]、楊光遠に従って范延光を討つこととなった。范延光に誘いをかけられ、孟州で起兵して反乱に呼応した。まず河陽節度使の石重信を殺害し、洛陽に入って、さらに東都留守の石重乂を殺害した。宮中の倉庫から金帛を取って部隊に給与し、東方の汜水関に拠って、情勢を観望しようとした。7月、石敬瑭が杜重威や侯益に命じてこれを討たせると、従賓は大敗して、馬に乗って黄河に入り、水に溺れて死んだ[5]。