月谷初子

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死没 (1945-02-19) 1945年2月19日(76歳没)
日本の旗 日本愛知県名古屋市
国籍 日本の旗 日本
別名 乾はつ
つきたに はつこ
月谷初子
生誕 1869年????
日本の旗 日本東京都麻布
死没 (1945-02-19) 1945年2月19日(76歳没)
日本の旗 日本愛知県名古屋市
国籍 日本の旗 日本
別名 乾はつ
職業 彫塑家
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月谷 初子(つきたに はつこ、1869年明治2年〉 - 1945年昭和20年〉)は、彫塑家、陶彫作家、ノベルティ原型師[1]。本名、乾はつ(いぬい はつ)別号に「乾月谷」[2]

東京・横浜時代

「彫塑家月谷先生略歴」によれば、1869年(明治2年)、東京麻布、内藤家屋敷内に乾与兵衛長女として生まれた[3]。出生した家の姓が「月谷であったという異説もある[4]。 また同じく弟子の手による「移転先及びその年代」によれば、1878年(明治11年)に横浜に転居、1881年(明治14年)まで住んだ[5]

この頃(12歳)、彫塑家の小倉惣次郎と出会い、小倉が水戸照武を介してドイツ人から注文を受け作成した「富士の景色と美人」彫刻のモデルとなった[6]。「人に優れし容色は外国人にも知れ渡り(中略)亜米利加娘の異名を取って居た」という[7]。同年小倉に入門、1884年(明治17年)15歳まで水戸徳川屋敷の小倉の工房に住んで西洋彫刻を学んだ[8]。1896年(明治29年)から1889年(明治32年)にわたっては、1896年(明治29年)から1889年(明治32年)にわたっては、「彫工会展」「美術協会展」に作品を出品、銅・銀賞を多く受賞した[3]。この頃、のちに彫刻家となり、乾漆や埴輪の研究家としても知られた吉田白嶺が、西洋彫刻を学ぶため月谷に弟子入りしている[9]

1890年(明治33年頃)には横浜にあって、真葛焼の宮川香山に師事した[10]。その後、以前の職場で出会った内縁の夫と各地の窯場を巡り修業を続け[3]、展覧会出展は途絶えている[5]

名古屋時代

1914年(大正3年)、三重県の実業家熊沢一衛の父の銅像を作製したのがきっかけで、1915年(大正4年)熊沢から愛知郡御器所村(現名古屋市昭和区山脇町)に作業場付き住宅の提供を受け、2年後から陶彫の製作や茶陶の製造に取り掛かった[10]。当初は同村荒畑の内田研工所内に窯を借り、「緑陶房」と称した[11]。1919ー20年(大正8-9年)、50歳の頃、屋敷内に窯を構え独立「忍焼」と称した[11]。陶彫作品はすべて無釉の焼き締め人形などだった[11]

この頃、守山区出身の木彫家後藤白童が知人に勧められ、御器所窯の内弟子に入った[12]。その当時の月谷は東京時代の華やかさが忘れられず、世間から奇行を揶揄されることが多く、多少でも作品が売れれば茶屋遊びや上等の米、人力車代などに消えてしまう始末だったと回顧している[13]。昭和初期には大恐慌の影響もあり、作品は売れなくなり[14]、「窯を焚く燃料代にも困る」ようになり[15]、1930年(昭和5年)、御器所窯は廃窯となった[11]

その後、かつての弟子加藤勇を頼って東春日井郡守山町(現名古屋市守山区)に転居、加藤は自身がノベルティ原型主任を勤めていた瀬栄陶器会社に、ノベルティ原型師として月谷を推薦した[14]。月谷は一戸建て社宅を与えられるなど優遇され、資金の援助も受けて、1932年(昭和7年)、会社グランド端に再びアトリエと窯を構え、号を「乾月谷」と改めて再出発した[16]。作品制作と茶陶作成を再開したが、展覧会への出品など自己宣伝をせず、一方でノベルティ原型師としての製作が出来ず、給与が打ち切られ経済的に困窮、夫の死もあり、守山窯も廃窯となった[17]

晩年

名古屋を離れ、かつての知己を頼りに東京や各地を放浪し、乳がんによる乳房摘出も体験した月谷が最後に頼ったのは、瀬栄陶器に原型師として職を得ていたかつての弟子、後藤白童だった[18]。1943年(昭和17年)秋、「うす汚れて見るからに哀れをもよおす風態」で戸口に立ったかつての師を白童は迎え入れ、自身の仕事場に住まわせた[19]。合わせて再び原型師として雇用されるよう会社に口利きをし、月谷は「ノベルティの原型・陶彫作品合わせて30点ほど」を瀬栄陶器の窯で焼成した[18]

1944年(昭和19年)、体調不良となり名古屋医療養老院に入院、1945年(昭和20年)2月19日に没した[20]

後世の評価

脚注

参考文献

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