望月重隆

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時代 平安時代末期 - 鎌倉時代
生誕 不明
死没 不明
 
望月 重隆
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代
生誕 不明
死没 不明
官位 従五位上左近衛太夫將監
幕府 鎌倉幕府御家人
主君 木曾義仲源頼朝
氏族 望月氏
父母 父:望月国親
兄弟 重忠重義重隆
盛重諸星義広
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望月 重隆(もちづき しげたか)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての武士御家人

当初は木曾義仲に仕え、義仲が鎌倉に嫡男・義高を人質に出した際、同族の海野幸氏と共に随従する。望月氏や同族の海野氏が義仲に重用されたのは、望月牧の馬にあった。当時、1500頭の馬を常時飼育しており、義仲に動員されていた。

義仲没落後は鎌倉幕府の御家人となる。文治4年(1188年)、奥州合戦に従い、建久5年(1194年)の安田義定義資父子の謀反を、幕命により追討している。

建久5年(1194年)10月9日、源頼朝が小山朝政ら弓馬の心得がある御家人に、流鏑馬の故実を議論させており、この中に「望月重澄」という人物が列しており、重隆に比定されている[1]

重隆は弓の名手で鶴岡八幡宮の放生会や流鏑馬、弓初めの射手に選ばれるほどの腕前で、建久6年3月(1195年)の源頼朝上洛の際は住吉大社での流鏑馬で東国の代表者として幸氏と共に参加した。同年の3月10日には、海野幸氏らと共に頼朝の東大寺参詣へと随行している[2]。8月には鶴岡放生会に供奉し、射手となった[3]

建仁元年(1201年)1月12日の幕府弓始には三番射手として列する[4]

建仁3年(1203年)1月3日の幕府弓始にて、三番射手として名を連ね、同年10月9日にも二番射手として名が見える[5]

元久元年(1204年)1月10日には、吾妻鏡にのみ登場する謎の多い弓の名手である吾妻四郎助光とともに、弓始にて三番射手を務める[6]。また同年2月10日、源実朝が由比ガ浜にて笠懸を開催した際にも射手を務めた[7]

「望月弓上手」と呼ばれ、幸氏・武田信光小笠原長清と並んで「弓馬四天王」と称された。

脚注

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