朝倉広景 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 鎌倉時代 - 南北朝時代生誕 建長6年(1254年)[1]死没 正平7年/観応3年2月29日(1352年3月15日)別名 孫右衛門尉。黒丸右衛門入道 凡例朝倉 広景時代 鎌倉時代 - 南北朝時代生誕 建長6年(1254年)[1]死没 正平7年/観応3年2月29日(1352年3月15日)別名 孫右衛門尉。黒丸右衛門入道戒名 空海覚性官位 美作守氏族 朝倉氏父母 父:朝倉広信子 高景、中野愚谷、松尾宗景テンプレートを表示 朝倉 広景(あさくら ひろかげ)は、南北朝時代の武将。越前朝倉氏の初代当主。但馬国朝倉谷の出身である[1]。 『平家物語』巻12に但馬に逃亡した平盛嗣の追捕を命じられた朝倉高清がいるが、この高清から数えて8代(『福井県史』では9代)の末裔が広景であるとされている[2]。 建長6年(1254年)に但馬国朝倉谷に生まれる[1]。 広景の時代に鎌倉幕府が滅亡すると、彼は足利尊氏の下に馳せ参じた。広景は斯波高経の母方の祖父・長井時秀の被官であったが、高経に従い越前に入る[3]。藤島の戦いにおいて高経と共に新田義貞討伐で戦功を立てたため、その恩賞として黒丸城を与えられた。広景は黒丸に居住したことから黒丸右衛門入道と号し、康永元年(1342年)に安居(福井県福井市金屋町)に弘祥寺を建立し、北庄神明神社の社殿を再興したりしている[1][2]。 以後朝倉氏は斯波氏の被官として越前に根を下ろした。広景は正平7年/観応3年(1352年)2月29日に98歳という当時としては驚異的な高齢で没した。 死後、家督は子の朝倉高景が継いだ。 脚注 [脚注の使い方] 出典 1 2 3 4 “朝倉氏略年表”. 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館. 2025年4月7日閲覧。 1 2 『朝倉義景』吉川弘文館。2頁。 ↑ 『福井県史』通史編1 参考文献 水藤真『朝倉義景』人物叢書・吉川弘文館 表話編歴朝倉氏初代当主(? - 1352)宗家 広景 高景 氏景 貞景 教景 家景 孝景 氏景 貞景 孝景 義景 | 断絶 -(信景) 分家・支流 在重流 在重 宣正 在重 重成 景宣 景豊 景儀 景増 光景 恒景 景次 Related Articles