長井時秀
長井氏嫡流、大江氏惣領、斯波高経の外祖父
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生涯
通称は太郎[5][10]で、『吾妻鏡』における初見は、宝治元年(1247年)11月15日条[11][12]に、この日に開催された鶴岡八幡宮放生会の参列者の中で後陣の随兵の一人として挙げられている「長井太郎」である[13]。この段階で諱の「時秀」の掲載はないものの、通称(仮名)は元服時に名付けられるものであり[注釈 3]、これ以前に元服を済ませたとみなすのが妥当である[15]。
1254年(建長6年)父の死の翌年には引付衆五番に任ぜられて幕政に参画し[16][4][5]、1257年(正嘉元年)[17][注釈 4]を始め、1264年(文永元年)[18]、1282年(弘安5年)にも東使として京に赴いたことが解る[19]。その間、正元元年(1259年)閏10月には宮内権大輔[20]に任ぜられ、五位に叙せられた[注釈 5]ほか、1265年(文永2年)6月11日条では評定衆に新任とあり[21][4]、1271年(文永8年)には備前守となる[5]。また、執権・北条氏の下で評定衆を務める身でありながら、歴代将軍(藤原頼経・頼嗣・宗尊親王)の側近としても重用されていたようである[5]。
『吾妻鏡』では文永3年(1266年)3月の評定衆結番の記事[22]を最後に「長井時秀」の名は見られなくなる[4]が、前述のようにその後も時宗の信頼を受けた。
建治元年(1275年)京都若宮八幡宮社の再建に当たり、御家人に費用の捻出が求められるが、鎌倉在住の長井氏は北条氏一門(500貫~200貫)、足利氏(200貫)に次いで多い、180貫の費用を提供した[23]。建治3年(1277年)12月、時宗の嫡子・貞時の元服に際し、時秀は湯摩杯を持参する役を務めて[24]その後見となった。
弘安7年(1284年)の執権・北条時宗の死去を機に出家し、西規と号した[25]後は活動が見られなくなる[26]が、没年は不詳である。子に宗秀があり[4]、『吾妻鏡』の編纂者のひとりではないかと推測されている。