木下敏
日本の軍人 (1886-1969)
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経歴
旧和歌山藩士・木下文次郎の長男として生まれる。和歌山中学、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1908年(明治41年)5月、陸軍士官学校(20期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第8連隊附となる。1917年(大正6年)11月、陸軍大学校(29期)を優等で卒業した。
1918年(大正7年)7月、陸士附となり、陸士教官、フランス駐在、陸軍歩兵学校教官を歴任。1923年(大正12年)8月、歩兵少佐に昇進。教育総監部課員を経て、1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵科に転じ航空兵少佐となり、下志津陸軍飛行学校教官に就任。1927年(昭和2年)10月、航空兵中佐に進級。陸軍航空本部員を経て、1931年(昭和6年)8月、航空兵大佐に昇進し航空本部附となる。1932年(昭和7年)1月、ジュネーヴ軍縮会議随員に就任し、飛行第5連隊長、飛行第7連隊長、航空本部第2課長、同本部第1部長を歴任。1936年(昭和11年)3月、陸軍少将に進級した。
1936年8月、第2飛行団長となり、所沢陸軍飛行学校長、陸士分校長、陸軍航空士官学校長を務め、1939年(昭和14年)3月、陸軍中将に進んだ。同年7月、航空兵団司令部付となり、第3飛行集団長を経て、1941年(昭和16年)9月、二度目の航空士官学校長に就任し太平洋戦争を迎えた。
1942年(昭和17年)12月、関東防衛軍司令官に発令され満州に赴任。1943年(昭和18年)12月、第3航空軍司令官に転じ、南馬来軍司令官としてシンガポールで終戦を迎えた。戦後、1946年(昭和21年)4月、第7方面軍司令官代理、同年6月、南方軍総司令官代理に就任。1947年(昭和22年)12月に復員。
栄典
親族
- 娘婿 石川泰知(陸軍大佐)・佐伯明人(陸軍中佐)