木曾義辰
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木曾 義辰(きそ よしはる、生没年不詳)は戦国時代の武将。祖母は武田信玄の三女で、木曾義昌の正室の真竜院。
父・義利は粗暴な振る舞いが多く、木曾義昌が織田信長から拝領した「鈴蟲」という轡を、叔父の上松義豊(上松蔵人)が、掠め取って返さないことを理由に殺害したり、愛妾が小姓と密通したと思い込み糾明もせず、両人を牛裂きの刑に処したりした。それらのことを耳にした家康によって、慶長5年(1600年)、改易処分となり、下総阿知戸(網戸)1万石を収公された。
義辰(よしはる)は妻と3人の子どもを連れて、流浪の身となり、瑞浪市へ落ちて行き、その地で二畝(ふたせ:60坪)程の田をもらい生活をした。次男の義徳は義辰亡き後も寺子屋を開きながら、士官の道を探していましたが夢叶わず、この土地で世を去ったが、明治13年明治天皇が下街道を巡幸された折、沿道の案内書が発行され、地元の人がこのことを知ることとなり、二十数人の人がお金を出し合い、この碑を建てて木曽玄蕃義徳をお祀りした[1]。