木阿弥 (同朋衆)

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時代 室町時代中期 - 後期
生誕 不詳
死没 不詳
 
木阿弥
時代 室町時代中期 - 後期
生誕 不詳
死没 不詳
幕府 室町幕府 同朋衆
主君 足利義尚義稙
氏族 不詳[注釈 1]
父母 父:不詳、母:不詳
畠山順光、男?[2]
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木阿弥(もくあみ)は、室町時代中期から後期にかけての人物。室町幕府同朋衆

木阿弥は、足利義尚足利義稙に仕えた同朋衆であった[3]。同朋衆の名前は世襲されることが多く、永享年間(1429年1441年)にも木阿弥の名がみえるため、先祖は足利義教の時代から同朋衆として仕えていたと考えられる[4]

延徳元年(1493年)3月、義尚が死去すると[5]、木阿弥は義稙に仕えた[3]

明応2年(1493年)2月、義稙が畠山政長尚順父子と共に河内に出陣すると[3][6]、木阿弥も息子の幸子丸(のち畠山順光)と共に従軍した[3]

4月、細川政元による明応の政変が発生すると、閏4月に正覚寺城が陥落し、政長は自害、尚順は紀伊に逃れた[3][7]。義稙はわずかな近臣と共に京都に連行されたが[3][7]、このなかには木阿弥と幸子丸もいた[3]

5月、義稙が幽閉先の龍安寺で食事に毒を盛られる事件が発生し、上原元秀の邸宅に移されると、木阿弥と幸子丸は義稙の食事の世話をしている[8][3]

6月、義稙が越中が逃れた際には[9]、木阿弥も幸子丸と共に下向した[10]。また、幸子丸が越中にて元服し、畠山氏の当主・畠山尚順の偏諱を受けて「順光」名乗ることとなった[10]。尚順は義稙方として、紀伊を拠点に活動していた[10]

明応7年(1498年)9月、義稙が越中から越前国一乗谷に移動すると[11]、木阿弥らもこれに従った[10]。以降、義稙の上洛に向けての活動を木阿弥が支えていくことになる[10]

明応8年(1499年)の5月から6月にかけて、木阿弥は河内や大和に下向し、 畠山尚順との連携を図った[10]。また、阿波の細川成之のもとにも赴いた[10]

7月、木阿弥は義稙の側近である一色視元種村視久らと共に、大友氏被官に書状を送っている[12]。当時、義稙は視元や視久、畠山政近伊勢貞仍らを駆使し、各地の勢力と連携を図っていたが[13][14]、木阿弥もその一端を担っていたことがうかがえる[2]

11月、義稙が細川政元との戦いに敗れ、周防大内義興を頼って移動すると[15]、木阿弥は順光と共に従った[2]。なお、同月末に木阿弥の息子が死んだという情報が出ているが、これが誤報でないならば、順光のほかに別に息子がいたことになる[2]

永正5年(1508年)正月、義稙が大内義興と共に上洛の途につき、4月に備前の下津井・牛窓に到着した[16][17]。順光はここから東福寺に対し、義稙に祈祷巻数を披露した旨を伝えている[18]

6月、義稙が京都へ帰還すると[19]、順光は木阿弥とこれに供奉している[18]。そして、7月に義稙が将軍に再任すると[20]、木阿弥は政治の場から退いたようである[21]

引退後、木阿弥は三条西実隆豊原統秋、伊勢貞仍、十市遠忠らと、和歌を通じて交流したことが記録されている[21]。また、木阿弥は土倉酒屋役の給付を受けて優遇されており、永正8年(1511年)頃までその活動が確認できる[21]

人物

  • 木阿弥は下向先の周防で、宗良親王の家集『李花集』を書写している[2]。その際、木阿弥は大内氏の文庫を借用して、半日で書写したとされる[2]。その書写は誤字が多かったようであるが、木阿弥の文芸に対する関心がうかがえる[2]

脚注

参考文献

関連項目

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