畠山順光
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室町幕府の同朋衆・木阿弥の息子として誕生[2][注釈 3]。幼名は幸子丸(幸子、幸次とも)[7]。
明応2年(1493年)2月、義稙が畠山政長・尚順父子と共に河内に出陣すると[8][9]、幸子丸も木阿弥と共に従軍した[8]。
4月、細川政元による明応の政変が発生すると、閏4月に正覚寺城が陥落し、政長は自害、尚順は紀伊に逃れた[8][10]。義稙はわずかな近臣と共に京都に連行されたが[8][10]、このなかには、幸子丸と木阿弥もいた[8]。
5月、義稙が幽閉先の龍安寺で食事に毒を盛られる事件が発生し、上原元秀の邸宅に移されると、幸子丸と木阿弥は義稙の食事の世話をしている[8][11]。
6月、義稙が越中が逃れた際には[12]、幸子丸も木阿弥と共に下向した[3]。また、越中にて元服し、順光を名乗ることとなった[3]。「順」の字は、畠山氏の当主・畠山尚順からの偏諱であると考えられる[3]。
明応7年(1498年)9月、義稙が越中から越前の一乗谷に移動すると[13]、順光らもこれに従った[3]。史料では、義稙に付き従ったものが13人おり、そのなかに「畠山与次郎」の名が確認できる[3]。
明応8年(1499年)11月、義稙が細川政元との戦いに敗れ、周防の大内義興を頼って移動すると[14]、順光は木阿弥と共に従った[4]。
永正3年(1506年)2月、義稙が山口から府中に移動すると、順光は御部屋衆として供奉している[4]。
永正5年(1508年)正月、義稙が大内義興と共に上洛の途につき、4月に備前の下津井・牛窓に到着した[15][16]。順光はここから東福寺に対し、義稙に祈祷巻数を披露した旨を伝えている[17]。
6月、義稙が京都へ帰還すると[18]、順光は木阿弥とこれに供奉している[17]。
7月、義稙が将軍に再任すると[19]、順光は二条の敷地を差し押さえている[17]。同月、順光と寺社奉行の松田英致は、東寺から寺領安堵の申し入れの際、礼銭を受けている[17]。
永正6年(1508年)6月17日、義稙が如意ヶ嶽の戦いで勝利すると、直後に御供衆の参勤が命じられ、そのなかに「畠与(畠山与次郎)」の名がある[17]。このことから、順光は御部屋衆から御供衆に昇格していたことがわかる[17]。
同年の7月から12月の間に、順光は「式部少輔」に名乗りを改めている[17]。かつて、畠山式部少輔家は義稙の父・足利義視に仕えていたことから、義稙と畠山尚順が式部少輔の官職を襲名させた可能性がある[20]。
永正14年(1517年)4月、順光は義稙の命により、大和に侵攻した[21][22]。当時、大和では越智氏や古市氏など諸勢力が抗争しており、義稙はその抗争を鎮めることを目的として、順光を主力とする軍勢を同国に出陣させたのであった[21][22]。
順光は将軍上使として、大内義興の軍と共に大和を攻め、たちまち同国を制圧した[21]。そして、順光は大和各地に兵糧米など諸税を課し、さらには官符衆徒の地位を手に入れようとするなど、大和守護の興福寺をはじめとする諸勢力にその力を示し、5月に帰京した[21][22]。
同月、義稙は順光を官符宗徒とする意向を示したが、これは興福寺の抗議により実現しなかった[22]。だが、このことや侵攻における軍事力からも、義稙の順光に対する優遇が示されている[22]。
永正16年(1519年)8月、順光は義稙に命じられ、再び大和に侵攻させている[23]。大内義興が周防に帰還し、在京する大名が少なくなってゆくなか、順光が軍事力の中枢を担っていることがうかがえる[23]。
永正17年(1520年)2月、義稙を支えていた細川高国が細川澄元に敗れた際、 義稙は高国から近江への同行を求められたが、澄元から恭順の意を受けていたため、これを拒否した[24]。そして、同月20日に澄元は順光を介して、義稙の上意に従う旨を伝えている[23]。
3月、三好之長率いる澄元勢が入京すると[25][26]、4月に順光は之長から御礼の訪問を受けている[23]。
5月、高国が近江から進軍して、之長ら澄元勢を京都で破り、復権を果たした[27]。高国は義稙の裏切りを責めるようなことはしなかったため[28]、順光の地位も特に変化はなかった[23]。そのためか、順光は下京で囃子物を興行している[23]。
永正18年(大永元年、1521年)3月7日、義稙が京都を出奔して堺に、次いで淡路に下向すると[29][30][31]、順光も息子の稙元ともに付き従った[23]。なお、義稙は京都に留守居役を置き、出奔の理由を述べた御内書と順光の書状を御所に残している[32]。だが、義稙に付き従ったのは順光らごくわずかであり、ほとんどの幕臣は京都に留まった[33]。
10月、義稙が淡路から堺に進軍すると、畠山尚順と畠山義英が味方したが、軍勢の主力は順光ら直臣団が担った[34]。だが、高国の軍や、尚順と袂を分かった畠山稙長の軍に敗れ、数百人が死亡したという[34]。敗北後、11月に義稙は淡路に下向した[34]。
大永3年(1523年)4月、義稙が阿波で死去すると[35]、順光は義稙の養子である足利義維に仕えた[34]。
大永6年(1526年)12月、順光は義維を擁した細川晴元らと共に、阿波から堺に進軍した[34]。
大永7年(1527年)1月20日[1]、順光は畠山義堯によって、堺で殺害された[34]。このとき、畠山長継の弟(畠山尹胤の子)とみられる「典厩舎弟」も殺害されているが、義維陣営には畠山政長流と畠山義就流という2つの畠山一門が混在しており、義維方の進軍に際して2つの畠山一門の間で何らかの対立が生じ、順光と「典厩舎弟」が殺害されたと考えられる[34]。
人物・評価
- 順光は義稙の側近として、流浪時から付き従い、申次・御供衆として活動した[36]。義稙が発給した御内書には、順光の副状が添えられることもあった[22]。また、順光は京都近郊の土豪層の被官化も進め、自身の経済力・軍事力を強めていたことが知られる[36]。
- 順光が義稙から側近として重用された[37]。その理由としては、義稙が大名以外の人的基盤を形成すべく、自身の手足となる側近を育成したためであり、順光の大和侵攻もその一環であったと考えられる[38]。
- 順光は畠山氏に「入名字」した人物であり[注釈 2]、本来なら一門の中枢にはなれぬ存在だった[36]。だが、順光は当主の畠山尚順から偏諱を受けたためか、尚順・稙長父子や畠山義元らと並ぶ形で順光が署名することもあるなど、畠山氏の一門に組み込まれており、その中枢として活動している[39]。これは、義稙と尚順との関係が反映された結果とする見方がある[22]。
- 順光は父の木阿弥と同様に、文学にも関心を示した[22]。近衛尚通や飛鳥井雅俊、三条西実隆、伊勢貞仍らとは和歌を通じて交流を持ち、自邸で鞠会を開催することもあった[22]。