畠山順光

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生誕 不詳
改名 幸子丸(幼名[2]→順光[注釈 1]
 
畠山 順光
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 大永7年1月20日1527年2月20日[1]
改名 幸子丸(幼名[2]→順光[注釈 1]
別名 通称:与次郎
官位 式部少輔
幕府 室町幕府 御供衆
主君 足利義稙 / 畠山尚順足利義維
氏族 不詳→畠山氏(入名字)[注釈 2]
父母 父:木阿弥、母:不詳
兄弟 順光、男?[4]
稙元維広
猶子:雲叔澄恵[5]
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畠山 順光(はたけやま のぶみつ/よりみつ)は、戦国時代武将。式部少輔流畠山氏の当主。父は同朋衆木阿弥であり、畠山氏出身の人物ではないが、入名字によって畠山姓を名乗った[2][注釈 2]

室町幕府同朋衆木阿弥の息子として誕生[2][注釈 3]幼名は幸子丸(幸子、幸次とも)[7]

明応2年(1493年)2月、義稙が畠山政長尚順父子と共に河内に出陣すると[8][9]、幸子丸も木阿弥と共に従軍した[8]

4月、細川政元による明応の政変が発生すると、閏4月に正覚寺城が陥落し、政長は自害、尚順は紀伊に逃れた[8][10]。義稙はわずかな近臣と共に京都に連行されたが[8][10]、このなかには、幸子丸と木阿弥もいた[8]

5月、義稙が幽閉先の龍安寺で食事に毒を盛られる事件が発生し、上原元秀の邸宅に移されると、幸子丸と木阿弥は義稙の食事の世話をしている[8][11]

6月、義稙が越中が逃れた際には[12]、幸子丸も木阿弥と共に下向した[3]。また、越中にて元服し、順光を名乗ることとなった[3]。「順」の字は、畠山氏の当主・畠山尚順からの偏諱であると考えられる[3]

明応7年(1498年)9月、義稙が越中から越前一乗谷に移動すると[13]、順光らもこれに従った[3]。史料では、義稙に付き従ったものが13人おり、そのなかに「畠山与次郎」の名が確認できる[3]

明応8年(1499年)11月、義稙が細川政元との戦いに敗れ、周防大内義興を頼って移動すると[14]、順光は木阿弥と共に従った[4]

永正3年(1506年)2月、義稙が山口から府中に移動すると、順光は御部屋衆として供奉している[4]

永正5年(1508年)正月、義稙が大内義興と共に上洛の途につき、4月に備前の下津井・牛窓に到着した[15][16]。順光はここから東福寺に対し、義稙に祈祷巻数を披露した旨を伝えている[17]

6月、義稙が京都へ帰還すると[18]、順光は木阿弥とこれに供奉している[17]

7月、義稙が将軍に再任すると[19]、順光は二条の敷地を差し押さえている[17]。同月、順光と寺社奉行松田英致は、東寺から寺領安堵の申し入れの際、礼銭を受けている[17]

永正6年(1508年)6月17日、義稙が如意ヶ嶽の戦いで勝利すると、直後に御供衆の参勤が命じられ、そのなかに「畠与(畠山与次郎)」の名がある[17]。このことから、順光は御部屋衆から御供衆に昇格していたことがわかる[17]

同年の7月から12月の間に、順光は「式部少輔」に名乗りを改めている[17]。かつて、畠山式部少輔家は義稙の父・足利義視に仕えていたことから、義稙と畠山尚順が式部少輔の官職を襲名させた可能性がある[20]

永正14年(1517年)4月、順光は義稙の命により、大和に侵攻した[21][22]。当時、大和では越智氏古市氏など諸勢力が抗争しており、義稙はその抗争を鎮めることを目的として、順光を主力とする軍勢を同国に出陣させたのであった[21][22]

順光は将軍上使として、大内義興の軍と共に大和を攻め、たちまち同国を制圧した[21]。そして、順光は大和各地に兵糧米など諸税を課し、さらには官符衆徒の地位を手に入れようとするなど、大和守護の興福寺をはじめとする諸勢力にその力を示し、5月に帰京した[21][22]

同月、義稙は順光を官符宗徒とする意向を示したが、これは興福寺の抗議により実現しなかった[22]。だが、このことや侵攻における軍事力からも、義稙の順光に対する優遇が示されている[22]

永正16年(1519年)8月、順光は義稙に命じられ、再び大和に侵攻させている[23]。大内義興が周防に帰還し、在京する大名が少なくなってゆくなか、順光が軍事力の中枢を担っていることがうかがえる[23]

永正17年(1520年)2月、義稙を支えていた細川高国細川澄元に敗れた際、 義稙は高国から近江への同行を求められたが、澄元から恭順の意を受けていたため、これを拒否した[24]。そして、同月20日に澄元は順光を介して、義稙の上意に従う旨を伝えている[23]

3月、三好之長率いる澄元勢が入京すると[25][26]、4月に順光は之長から御礼の訪問を受けている[23]

5月、高国が近江から進軍して、之長ら澄元勢を京都で破り、復権を果たした[27]。高国は義稙の裏切りを責めるようなことはしなかったため[28]、順光の地位も特に変化はなかった[23]。そのためか、順光は下京囃子物を興行している[23]

永正18年(大永元年、1521年)3月7日、義稙が京都を出奔してに、次いで淡路に下向すると[29][30][31]、順光も息子の稙元ともに付き従った[23]。なお、義稙は京都に留守居役を置き、出奔の理由を述べた御内書と順光の書状を御所に残している[32]。だが、義稙に付き従ったのは順光らごくわずかであり、ほとんどの幕臣は京都に留まった[33]

10月、義稙が淡路から堺に進軍すると、畠山尚順と畠山義英が味方したが、軍勢の主力は順光ら直臣団が担った[34]。だが、高国の軍や、尚順と袂を分かった畠山稙長の軍に敗れ、数百人が死亡したという[34]。敗北後、11月に義稙は淡路に下向した[34]

大永3年(1523年)4月、義稙が阿波で死去すると[35]、順光は義稙の養子である足利義維に仕えた[34]

大永6年(1526年)12月、順光は義維を擁した細川晴元らと共に、阿波から堺に進軍した[34]

大永7年(1527年)1月20日[1]、順光は畠山義堯によって、堺で殺害された[34]。このとき、畠山長継の弟(畠山尹胤の子)とみられる「典厩舎弟」も殺害されているが、義維陣営には畠山政長流と畠山義就流という2つの畠山一門が混在しており、義維方の進軍に際して2つの畠山一門の間で何らかの対立が生じ、順光と「典厩舎弟」が殺害されたと考えられる[34]

人物・評価

  • 順光は義稙の側近として、流浪時から付き従い、申次御供衆として活動した[36]。義稙が発給した御内書には、順光の副状が添えられることもあった[22]。また、順光は京都近郊の土豪層の被官化も進め、自身の経済力・軍事力を強めていたことが知られる[36]
  • 順光が義稙から側近として重用された[37]。その理由としては、義稙が大名以外の人的基盤を形成すべく、自身の手足となる側近を育成したためであり、順光の大和侵攻もその一環であったと考えられる[38]
  • 順光は畠山氏に「入名字」した人物であり[注釈 2]、本来なら一門の中枢にはなれぬ存在だった[36]。だが、順光は当主の畠山尚順から偏諱を受けたためか、尚順・稙長父子や畠山義元らと並ぶ形で順光が署名することもあるなど、畠山氏の一門に組み込まれており、その中枢として活動している[39]。これは、義稙と尚順との関係が反映された結果とする見方がある[22]
  • 順光は父の木阿弥と同様に、文学にも関心を示した[22]近衛尚通飛鳥井雅俊三条西実隆伊勢貞仍らとは和歌を通じて交流を持ち、自邸で鞠会を開催することもあった[22]

系譜

脚注

参考文献

関連項目

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