本多利久 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 生年不詳死没 慶長8年1月13日(1603年2月23日)改名 水野半右衛門[1][2]→本多利久 凡例本多 利久時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 生年不詳死没 慶長8年1月13日(1603年2月23日)改名 水野半右衛門[1][2]→本多利久別名 水野利忠[3]、与八郎[3]、太郎左衛門(通称)[1][2]官位 従五位下・因幡守主君 織田信安→豊臣秀吉→秀長→秀保→秀吉→秀頼→徳川家康氏族 尾張水野氏→源姓本多氏父母 父:水野利元兄弟 利久、利氏、女子 俊政、女(秋田孫九郎室)、光吉テンプレートを表示 本多 利久(ほんだ としひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。大和国高取城主。官位は従五位下・因幡守。 はじめ水野半右衛門と称し、尾張国岩倉城主・織田信安に仕えていたが[1][2]、後に羽柴秀吉、次いでその弟・秀長の家臣となり、天正7年(1579年)の三木城攻めで戦功を挙げた[1]。 天正13年(1585年)には脇坂安治に代わって大和国高取城主となり、2万5千石を領した(『藩翰譜』、『諸家系図纂』)[1][2]。 天正17年(1589年)には秀長の命を受けて高取城の改修を行った[4]。技師長は軍学者の諸木大膳が務め、これにより高取城は近世城郭として整備された[5]。 また、天正年間の末頃に嫡男・俊政に1万石を分知し[1]、文禄3年(1594年)には伏見城の普請を分担した[1]。 文禄4年(1595年)に秀保が没した後も所領は据え置きのまま秀吉に仕えた[2]。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは俊政とともに東軍に与して西軍に抵抗したため、所領を安堵された[1][2]。 慶長8年(1603年)1月13日、死去(『本多系図』、『諸家系図纂』、『断家譜』)[1][2]。 脚注 [脚注の使い方] 1 2 3 4 5 6 7 8 9 高柳 & 松平 1981, p. 221. 1 2 3 4 5 6 7 阿部 & 西村 1990, p. 706. 1 2 『系図纂要』, p. 45 ↑ “日本一の山城 大和高取城” (PDF). 高取町 (2017年3月1日). 2022年11月9日閲覧。 ↑ 小和田 2020, p. 68. 参考文献 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典 増訂版』吉川弘文館、1981年、221頁。 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、706頁。ISBN 4404017529。 “『系図纂要』 源朝臣姓本多”. 東京大学史料編纂所. 2022年11月10日閲覧。 小和田哲男『西日本「御城印」徹底ガイド 見どころ・楽しみ方がわかる』メイツ出版、2020年3月。ISBN 9784780422993。 Related Articles