本庄晋一
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本庄宿の医師本庄正俊の次男として本町に生まれ、医師を志し、江戸で沼津藩医の保土田翠蘭に学び、その後、日本、中国、オランダの医学についても幅広く調べ、研究を重ねる。文政6年(1823年)の時点で「普一」と名乗っており、諸国を遍歴し、各地の名医を訪ね、療法や秘薬の教えを乞い、病人を普(あまね)く救う事を自分の課題として、「普一(病人に普く一灯をともす)」と号したとされる。また、華岡青洲の乳がん手術図も模写している。文政8年(1825年)頃、長崎に至り、オランダ医術を学び、シーボルトも治す事ができなかった清人の眼病を手術によって治療し、眼科医として全国的に名声を得る。蘭漢折衷型医術を自分のものとし、京都、河越など治療の旅を続け、文政10年(1827年)頃、本庄に戻り、内科、外科、眼科を開業。大勢の門人の指導にあたりながら、文政12年(1829年)に『眼科錦囊(がんか きんのう)』を、天保8年(1837年)には『続眼科錦囊』を刊行した(この本のシリーズは19世紀の眼科医のバイブルとなった)。他にも、『天狗堂脈論』なども著した(出版に至らなかった本も数冊ある)。交友関係は蘭学者から儒学者まで幅広く、忍藩の儒者芳川波山とは江戸遊学時より親交を重ねる間柄であった。シーボルトの高弟とされる高野長英とも親交があったとされる。また、漢詩文にも精通していた。弘化3年(1846年)2月に本庄で大火が起こり、焼き出された為、児玉郡八幡町に借家し、同年11月に49歳で没し、同所、浄眼寺にて葬られる(本庄市内の円心寺の方にも本庄家の墓石が見られる)。養子である本庄俊圭(1826年 - 没年不詳)が文人医師として後を継いでいる。