本田幸介
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鹿児島県鹿児島市生まれ[5]・出身[6]。鹿児島藩士で初代長崎裁判所総督、初代埼玉県令となった野村盛秀の二男として生まれ、本田仲次郎の養子となった[3]。1886年(明治19年)、駒場農学校を卒業した[1]。農商務属、技手、東京農林学校教授、帝国大学農科大学助教授を歴任した[1]。1891年(明治24年)から1895年(明治28年)までドイツに留学し、帰国後に帝国大学教授に就任した[7]。1899年(明治32年)、農学博士号を受けた[1]。
1906年(明治39年)より統監府勧業模範場場長、朝鮮総督府勧業模範場場長、同農林学校校長を務め、1919年(大正8年)に退官した[7]。
1921年(大正10年)、九州帝国大学教授・農学部長に就任し、翌年に帝室林野局長官に任命された[7]。1926年(大正15年)に退官した後は宮中顧問官に就任した[7]。
1930年(昭和5年)4月20日、狭心症で治療を受けていたが東京府東京市小石川区駕籠町(現東京都文京区)の自宅で死去、66歳[8]。朝鮮における農業の基礎を形作った功労などにより死没日をもって勲一等瑞宝章追贈[4]。
