本間祥白
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1904年(明治37年)9月18日、山形県東村山郡に生まれる。山形県立農学校を卒業後、2年ほど家業の農業に従事した後に上京して東洋大学文学部哲学科に入学[2]。
卒業後、巣鴨にてパン屋「ホンマベーカリー」を開業した後に電気治療に携わるようになる。
1939年に柳谷素霊の紹介で井上恵理に弟子入りを懇願。一度断られるものの、鍼灸の研究をともに進むことを誓い、弟子入りを許される。以後毎日井上恵理の治療を見学しに行き、1943年9月に独立開業[3]。
「古典研究会」へ参加し、彼らとともに古典経絡治療の理論体系を確立した[2]。
1961年にドイツ・ミュンヘンで開かれた国際鍼学会に日本の外遊鍼灸師として柳谷素霊に次いで二番目に招聘され、「陰陽五行による日本の鍼灸」という題で講演し、フランスでも講演を行った。日欧間の鍼交流にも努めた。さらに東洋鍼灸専門学校講師、東京教育大学古典医学講師、経絡治療夏期大学講師として古典鍼灸医学の普及に尽力した[2]。
昭和26年山形の実家に疎開していた本間は東京永住を決め、上京。以後、巣鴨に新居を構え、なくなるまで過ごした。『誰にもわかる経絡治療講話』はこの疎開中の山形で書いた作品である[4]。
井上恵理との関係
→井上恵理の「本間祥白との関係」を参照
人物
本間は井上恵理に弟子入りを許され初めて治療を見学したときに、「先生の治療はどういう治療ですか」と尋ねた。井上が「『難経』です」と答えると、「それは(仏典の)お経の本ですか?」と答え、「いやこれは鍼灸治療の本だよ」と答えられた[3]。
その後「古典鍼灸研究会」にて、1941年(昭和16年)より柳谷素霊に代わり、井上恵理が講師に就任したに際、上記エピソードが頭にある本間は井上に『難経』の講義を懇願した。当時の井上はまだ『難経』を講義するまでに研究が至っておらず渋った。しかし、井上が号令を出す前から、本間は研究会仲間に『難経』を買わせており、井上は講義をやらざるを得なかった。この際に井上は自らすべてを講義するのではなく、81難(難経では1項目が難と称される)を1難ずつ会員に割り振り、自らの臨床で検証しながら読んでくるよう指導した。3年半かかった研究記録をまとめた本として、『難経の新研究』という原稿が出来上がり、印刷所にまで回していた。しかし、1945年3月9日の東京大空襲にて、印刷所もろとも消失。戦後、そのときの研究から本間が再度検討と研究を重ね出来上がった本が遺著『難経の研究』(医道の日本)である[3]。
師である井上は本間が亡くなったのち出版された『難経の研究』にて、本間について、「東北出身のねばり強さと、生来の綿密な思考力によって精根を尽くす努力家」と称した。本間は著述のたびに健康を害するほど集中し、その検討に夜中まで井上も付き合ったという[3]。
本間の鍼灸人生は「難経」に始まり、「難経」に終わった[3]。
また難経の75難の項目について、先人の研究に不十分さを感じた本間は自らの研究を記し、当時発表予定だった雑誌「東邦医学」の編集者・竹山晋一郎の元を訪れた。本間は竹山が一緒によくやってくれたと喜ぶに違いないと思っていたが、ことのほか「これでは掲載できない、書き直せ」といわれたために、外に出てから涙したという。ちなみに竹山はその次に本間が直した原稿にも書き直しを命じている。涙した話を後日、医道の日本の座談会で聞き、竹山は編集者の立場を考えさせられたという[4]。