朱忠亮
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明経を受験して及第せず、昭義軍節度使の薛嵩に仕えて裨将となった。大暦年間、普潤県に駐屯し、屯田をつかさどった。功績により太子賓客に抜擢された[1][2]。
建中4年(783年)、朱泚の乱が起こると、士明は麾下40騎を率いて奉天に駆けつけた。徳宗に称賛され、東陽郡王に封じられ、奉天定難功臣となった。興元元年(784年)、徳宗が梁州に避難すると、士明は朱泚の騎兵に捕らえられ、長安に拘禁された。朱泚の乱が鎮圧されると、士明は李晟によって釈放され、渾瑊の推薦を受けて、定平鎮都虞候となった。鎮使の李朝寀が死去すると、士明は代わって鎮使となった。永貞元年(805年)、憲宗が即位すると、士明は御史大夫を加えられた。臨涇城を築いた功労により、検校工部尚書・涇原四鎮節度使を加えられ、忠亮の名を賜った[1][2]。
涇州の旧俗では子を売ることが多く、忠亮が俸銭でその身柄を買い取ってその親元に帰した者が200人ほどあった。潘原城を築いた功労により丹陽郡王に改封された。元和8年(813年)、死去した。尚書右僕射の位を追贈された。諡は霊といった[1][3]。