薛嵩
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范陽・平盧節度使の薛楚玉の子として生まれた。薛仁貴の孫にあたる。稼業を営まず、膂力に優れ、騎射を得意とし、書を知らなかった。安史の乱が起こると、反乱軍側に従軍した。広徳元年(763年)、唐軍が洛陽を平定し、皇太子李适が天下兵馬元帥となると、僕固懐恩を河北奪回のために派遣した。薛嵩は燕の将として相州を守っていた。史朝義の兵が壊滅し、唐軍がやってくると聞くと、薛嵩は恐れうろたえて、僕固懐恩を馬前に迎えた。僕固懐恩は薛嵩を許し、旧職を守らせた。薛嵩は検校刑部尚書・相州刺史となり、相衛洺邢等州節度観察使をつとめた。大暦2年(767年)、平陽郡王に封じられ、昭義軍節度使に名を改められた。大暦3年(768年)、検校尚書右僕射を加えられた。大暦8年(773年)1月、死去した。太保の位を追贈された[2][3]。