朱楓

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死没 1950年6月10日(1950-06-10)(44歳没)
台湾省台北市
民族 漢族
出身校 鎮海県立高等女子小学校
寧波女子師範学校
寧波竹洲師範学校
朱 楓
朱楓、1923年
生誕 (1905-11-22) 1905年11月22日
浙江省鎮海県
死没 1950年6月10日(1950-06-10)(44歳没)
台湾省台北市
民族 漢族
出身校 鎮海県立高等女子小学校
寧波女子師範学校
寧波竹洲師範学校
職業 革命烈士
政党 中国共産党
配偶者 朱暁光
子供 朱暁楓
朱明
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朱 楓
各種表記
繁体字 朱 楓
簡体字 朱 枫
拼音 Zhū Fēng
和名表記: しゅ ふう
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朱 楓(しゅ ふう、1905年11月22日 - 1950年6月10日)は、中国共産党の地下工作員であり、「革命烈士」として追認された女性情報員。

1905年11月22日、浙江省鎮海県に生まれる。旧名は朱諶之(しゅ せんし)。小名は桂鳳。字は弥明。1914年に鎮海県立高等女子小学に入学、1921年に寧波女子師範学校に進学。

1925年、「五・三〇事件」が発生し、率先して反帝国主義・愛国運動に参加。1926年、寧波竹洲師範学校に卒業。1927年、瀋陽市に嫁ぐ。

1931年、「満洲事変」後、一家で故郷に戻り、翌年に夫が病死。

1937年、日中戦争が始まると、救亡宣伝活動に投身し、日本軍の爆撃による死傷者の救護活動に参加。鎮海民衆教育館を借りて義売展を開催し、自身が長年にわたり創作・収集した金石、書画、工芸品などを出品、得られた収益金を全て抗戦運動に寄付した。この時期に朱曉光と結婚。同年末、一家で湖北省武漢市に移り、翌年に中国共産党が指導する新知書店の仕事に参加し、500銀元を寄付。武漢陥落後は湘西地区に転居し、後に浙江省に戻った。

1939年夏、浙江省金華県で、中国共産党が派遣した華白沙・張一之の両名と協力し、台湾出身の李友邦による「台湾抗日義勇隊」の結成を支援。800銀元を寄付し、義勇隊創設期の資金難を解決した。

1939年秋、皖南の新四軍本部に赴き、新四軍「随軍書店」の業務に参加。

1940年、「皖南事変」前に命令により浙江省金華県に避難。その後、新任務を受けて日本軍占領下の上海市へ移動。この時期、大後方の革命出版事業が直面する物資・資金難を解決するため、母の遺品を売却して印刷資材を調達。自ら香港、大亜湾、沙魚沖などを経由するルートで物資を護送し、東江を遡って広西省桂林市まで運搬した。

1940年から1942年にかけ、新知書店総店と桂林事務所で勤務。この間、組織を代表して3度にわたり「上饒収容所」を訪れ、朱曉光同志の面会・慰問と救出活動を展開し、任務を立派に遂行した。

1943年、書店の副業である「珠江食品店」の整備・強化任務を担当。

1944年初頭、武漢市を経て上海市に赴き、新知書店上海事務所が準備中の「同豊商行」の業務に参加。

1944年10月、「同豊商行」が敵により破壊され、職員が逮捕される。朱楓は日本軍滝西憲兵隊の牢獄に拘束され、残酷な拷問にも耐え抜き、組織の救出活動により釈放された。

1945年初頭に中国共産党に加入。

1945年以降、地下党が設立した公開商業機関「聯豊棉布号」「鼎元銭庄」で、公方代表として財務責任者を務めた。

1948年、香港に転勤し、党の地下工作を継続した。

1949年11月、中華人民共和国成立後、朱楓は党の指示を受け、華東局より台湾への秘密任務に派遣された。11月25日、香港経由で台湾・基隆市行きの貨客船に乗船し、台湾に到着。現地では事前の打合せに従い、台湾工作委員会書記・蔡孝乾と速やかに連絡を確立。続いて呉石将軍とも接触を図った。数日後、朱楓は定められた工作計画に従い、基隆埠頭で入手済みの重要情報一批を中国共産党華東局情報部の連絡員に引き渡した。

1950年2月、蔡孝乾の逮捕と変節により、島内で数百名の地下党員が相次いで逮捕される中、朱楓も舟山群島定海県で拘束された。

1950年6月10日、朱楓は台北市馬場町で革命スローガンを高唱しながら刑死した。享年45歳。処刑直前まで「中国共産党万歳!」と叫び、抵抗を続けたとされる。同時に処刑されたのは、国防部参謀次長の呉石将軍、呉石副官の聶曦上校、軍聯勤総部第四兵站総監の陳宝倉中将らであった。

家族

  • 夫:朱暁光
  • 女:朱暁楓
  • 子:朱明

死後の栄誉

出典

参考文献

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