聶曦
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1917年、福建省福州市で生まれる[1][2]。早年は中華民国国防部史政局の総務組長、後に中国国民党東南軍政長官公署総務処交際科長を務め、上校(大佐)の階級にあった[1][2]。
1949年、中国国民党が台湾島へ敗走する際、福州市に残された大量の軍事機密文書の処理において、聶曦は呉石の命令を受け、これら298箱に及ぶ極秘档案を中国人民解放軍に引き渡すよう密かに工作し、無事に中国人民解放軍へと受け継がれた[1][2]。
その後、聶曦は自身の危険を顧みず、呉石に随行して台湾島へ渡り、引き続き地下工作を展開した[1][2]。台湾島では、香港から派遣された女性工作員・朱楓と呉石との連絡役を務め、台湾島の防衛部署図など極めて重要な軍事情報の受け渡しを担当した[1][2]。
1950年初に台湾共産党の責任者であった蔡孝乾が逮捕され投降したことで、組織が暴露[1][2]。聶曦は同志に危険を知らせ、朱楓の避難を助けたが、自身も逮捕されてしまった[1][2]。逮捕後、聶曦は過酷な取り調べを受けたが、いかなる情報も明かさず、同志を守り通した[1][2]。
1950年6月10日、聶曦は呉石、朱楓、陳宝倉と共に、台北市の馬場町刑場で死刑を執行された[1][2]。33歳の若さであった[1][2]。刑に臨む聶曦は白いシャツを着込み、悠然とした笑みを浮かべ、死を恐れない姿で台湾のメディアから「形象英武、大義凛然、死前毫無惧色」(風貌は立派、正義を重んじる気概に満ち、死の前にまったく怯えが見えなかった)と報じられた[1][2]。