朱瑾
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経歴
天平軍節度使の朱瑄の従弟、あるいは同母弟[4]にあたる。勇猛果断で戦いを得意とした。光啓2年(886年)、泰寧軍節度使の斉克譲の娘と婚約し、婚礼の夜に兵を発して斉克譲を追放し、留後を称した。朱瑄の命を受けて汴州の朱全忠を救援し、秦宗権を撃破した。朝廷により泰寧軍節度使に任じられた。龍紀元年(889年)、朱瑄の命を受けて徐州の時溥を救援した。このため朱全忠に憎まれることとなった。乾寧2年(895年)、朱全忠の長男の朱友裕に兗州を包囲された。乾寧4年(897年)、鄆州が陥落して朱瑄が殺害されると、龐師古に兗州を攻撃された。兗州では食糧が尽きたため、朱瑾は城を出て食を求めた。朱瑾の二子と大将の康懐英らが兗州ごと龐師古に降ったため、朱瑾は帰路を失った。沂州に逃れたが、龐師古に迫られたため、淮水を渡って楊行密を頼った[5][6][7][8]。
楊行密は朱瑾を寵遇し、武寧軍節度使として任用した。朱瑾は清口で汴州の軍を破り、このため朱全忠は兵を率いて淮水を渡ろうとはしなくなった。楊行密の死後、呉の政権は徐温とその長男の徐知訓に掌握され、朱瑾は同平章事となったが、徐温になびこうとしないことが憂慮された。天祐15年(918年)6月、静淮軍節度使として出されることになった。朱瑾は酒宴の席で徐知訓を殺害したが、牙兵と戦って足を負傷し、自刎した。享年は52。徐温により朱瑾の遺体は揚州城の北門にさらされた後、雷公塘に投げ捨てられた。のちに徐温は病にかかり、髪を振り乱した朱瑾に射かけられる夢を見たことから、かれを礼葬した[5][9][10][11]。