朱友裕

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朱 友裕(しゅ ゆうゆう、? - 904年天祐元年))は、後梁の太祖朱全忠の長男。瑞夫封号郴王。生母の名は不詳。妻は劉氏[1][リンク切れ]

少年時代から素質が優れ、特に騎射に優れており、また父の下に従軍する際に、兵卒に寛大な対応を示したので、そのために父からも、重臣たちからも将来を期待されていた。

各地を転戦し、中和年間に勇猛果敢な突厥沙陀部の軍勢を率いる雁門節度使李克用が、華州で籠城している黄鄴黄巣の弟)と戦っているために、父と共に李克用を援助するために宣武府に駐屯した。李克用の沙陀部の軍勢は、黄鄴の軍勢に射撃したが命中しなかった。かわって父の命で派遣された朱友裕が黄鄴の軍勢に射撃すると見事に命中して、これを壊滅させた。これを見た将兵は大いに驚愕して、これに感心した李克用も朱友裕に良質の弓矢を差し出して、その腕を試した。すると朱友裕は百矢を射ても外すことはなかったという。そのために、李克用を初め、父からも絶賛されて検校左僕射・衙内都指揮使に任じられた。889年に父・朱全忠は蔡州節度使の秦宗権を攻め滅ぼした。

892年に父に従って、先鋒の将として200騎を率いて、濮州に駐屯した天平軍節度使の朱宣を討伐した。濮州の斗門に駐屯するも、間もなく1万の軍勢を率いた朱宣の襲撃を受けて、敗北を喫してしまい、後から合流するはずの父の軍勢を一時的に見失った。その年の冬に父と共に濮州を奪回した。同年に徐州に駐屯した武寧軍節度使の時溥を父と共に討伐して、これを包囲した。その直後に泰寧軍節度使の朱瑾(朱宣の従弟、または同母弟)が朱宣の命を受けて時溥の救援に向かった。朱友裕は父の命を受けて、2万の軍勢を率いて朱瑾を迎え撃ち、石仏山で激戦の末に、朱瑾を敗走させた。これを聞いた朱全忠の仮子朱友恭は右龍武都統の氏叔琮と共に、朱友裕が故意に朱瑾を見逃したと朱全忠を批判した。これを聞いて激怒した朱全忠は朱友恭の兵権を剥奪しようとした。この時の使者が誤って朱友恭ではなく、朱友裕のもとに朱全忠の書信を渡した。これを見た朱友裕は不安になったが、これを聞いた嫡母の張夫人(末帝の朱友貞の生母)が手を差し伸べて、その誤解を解くために継子の朱友裕を懸命に助命した。そのために、朱友裕は受難を逃れた。

数年後、許州にいた朱友裕は、たび重なる戦禍で民が疲労すると、それを案じて救済活動を奨励した。その結果、民は安定して3万戸余が形成され、父からその功績を誉められた。903年2月、父が華州鎮国軍を兼務すると、彼は要衝の後衛府を統括し、鎮国軍節度使に任じられた。904年5月に父から行営都統に任じられて、反乱を起こした李茂貞王建・李継徽(楊崇本)を討伐するために、岐州邠州に向かった。

同年7月、改めて父と共に楊崇本らの討伐に従軍するが、その途中の永寿県で病を発し、10月に若くして病死した。将来的に頼りになる長男の訃報を聞いた朱全忠は大いに悲しみ、落涙しながら慟哭したという。同年に嫡母の張夫人も逝去して、以降から朱全忠の女漁りによる淫乱に拍車がかかった。

907年3月に、父がを滅ぼしてが帝位につくと、郴王としての爵位と太師の官位を贈られた。彼には嗣子がなかったという。朱全忠は数人の子がいたが、最も素質があったのは最年長の朱友裕のみで、朱友裕の異母弟である郢王の朱友珪などは、晋王李存勗(李克用の子)との戦いでの連戦連敗が相次いで苛立った父から「私の息子は豚犬以下だ」と嘆く有様であった。

家族

脚注

史料

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