1768年に朴趾源に師事する。1779年に正祖が奎章閣を設置すると検書官に抜擢された。また1778年以降、4度にわたり朝鮮燕行使に随行して中国へ行き、その際に農業・牧畜・城郭・宮殿・舟・瓦の製法に至るまで詳細に観取して、中国から学ぶことによる福利厚生を説いた『北学議』を著し[1]、正祖の求めに応じて見聞を「丙午所懐」にまとめて上程した。無為徒食の腐敗両班を批判し、士農工商の序列を改め、貿易と通商によって国家を豊かにさせる重商主義を主張したが、保守勢力の反対に遭い、受け入れられなかった。
漢を中華に置き、女真と朝鮮を「夷」と把握した[3]。