朽木稙綱 (戦国武将)

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朽木 稙綱(くつき たねつな、生没年不詳)は、戦国時代の武将。近江国朽木谷の国人。

改名 竹松丸→稙広→稙綱
別名 仮名:弥五郎[1]
戒名 宏公[1]
概要 凡例朽木 稙綱, 時代 ...
 
朽木 稙綱
時代 戦国時代
改名 竹松丸→稙広→稙綱
別名 仮名:弥五郎[1]
戒名 宏公[1]
官位 民部少輔
主君 足利義晴義輝
氏族 朽木氏
父母 父:朽木材秀
側室:今(葉室頼継娘)[2]
晴綱藤綱成綱直綱輝孝鯰江為貞
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生涯

生年は不明で、朽木文書内での初見は永正2年(1505年)で「竹松」という幼名で登場し、室町幕府奉行人の飯尾元行松田頼亮から奉書を受け取っている。

正確な元服年はわからないが、永正13年(1516年)には父・材秀(きひで)同様、室町幕府10代将軍足利義稙から偏諱を受けて稙広(たねひろ)と名乗り、大永2年(1522年)から同4年の間に稙綱(たねつな)と改名。官職は民部少輔。

永正初年(16世紀初め頃)には幕府奉公衆として御所御門役を務め、1525年の浅井攻めでは六角定頼軍に従い、その先鋒を務めている。将軍足利義晴義輝父子が朽木谷へ逃亡した際の朽木氏当主であり、12代将軍・義晴の時代(天文初期~中期、1530年代~1540年代)には、将軍の側近集団であった内談衆の1人として幕府の政治的な決定にも関与している。また、13代将軍・義輝の代には将軍の御供衆に任命された。

近江国六角氏京極氏と争い、あくまで独立を維持していたが、六角定頼が勢力を拡大してくると、その配下として服属せざるを得なくなったという。

没年についても定説はない。朽木文書中で最後に登場するのは天文18年(1549年)であるが、永禄5年(1562年)の史料にも登場するという説もあり[3]、1560年代まで生存していた可能性もある。

系譜

  • 父:朽木材秀
  • 正室:不詳
  • 側室:今(?-1576) - 葉室頼継娘、もと足利義晴女房[2]
    • 男子:朽木藤綱 - 仮名弥六[2]、刑部小輔[4]
  • 生母不明の子女
    • 男子:朽木晴綱(1518-1550) - 仮名弥五郎[4]
    • 男子:朽木成綱 - 左兵衛尉[4]
    • 男子:朽木直綱 - 仮名弥七郎[4]
    • 男子:朽木輝孝 - 仮名弥十郎[4]
    • 女子:鯰江為貞[4]

脚注

参考文献

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