朽木綱貞 (陸軍軍人)
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1883年(明治16年)に父の為綱が没したため家督を継ぎ、1884年(明治17年)7月8日、子爵を襲爵する[2]。慶應義塾幼稚舎を経て、1896年(明治29年)5月27日、陸軍士官学校(7期)を卒業。1897年(明治30年)1月、砲兵少尉任官。陸軍砲工学校高等科で学び、さらに陸軍派遣学生として東京帝国大学工科大学応用化学科を1904年(明治37年)6月に卒業。
東京湾要塞砲兵連隊中隊長、陸軍兵器本廠検査官、砲工学校教官などを務める。1914年(大正3年)8月、火薬研究所長に就任。1916年(大正5年)11月、砲兵大佐に昇進。陸軍科学研究所第二課長、陸軍造兵廠火工廠長などを歴任。1921年(大正10年)3月、陸軍少将となり、1924年(大正13年)2月、予備役に編入された。その他、東京帝国大学工学部講師、陸軍技術会議員などを務めた。
1928年(昭和3年)10月6日、補欠選挙で貴族院子爵議員に選出され[3]、研究会に属したが[1]、1929年(昭和4年)9月6日薨去す。享年55歳。墓所は青山霊園。
家督は養子の朽木綱博(旧鳥取藩主家で侯爵池田仲博の子)が相続した。実娘・美知子は、綱博の実兄で池田家の後継当主であった池田徳真に嫁いだ。