旧暦弘化2年11月5(1845年12月3日)、12代藩主朽木綱張の長男として生まれる。父の当初の養嗣子紘綱(8代藩主朽木昌綱の三男米倉昌寿の五男)が早世したため嫡子となる(為綱の最初の妻恒子は、紘綱の妹)。文久元年3月15日(1861年)、14代将軍徳川家茂に拝謁。文久2年12月16日(1863年2月4日)、従五位下・伊予守に叙任する。慶応2年4月17日(1867年)、綱張の死去に伴い家督を継いだ。
王政復古後の慶応3年12月13日(1868年1月)、藩士を京都を派遣し、旧幕府の命により旧京都所司代邸の警備にあたる。慶応4年1月3日(1868年1月27日)の鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府側に合流しようとしたものの、旧幕府軍の敗退で引き返した。まもなく、山陰道鎮撫総督西園寺公望率いる鎮撫軍が到来すると、福知山藩は勧告に従い降伏。2月6日、為綱は上洛して恭順の姿勢を示した。新政府からは北越出兵、丹波・丹後などの代官地・幕府領などの接収を命じられた。2月24日、藩士の一部と旧幕府側との連携の疑いをかけられ、謹慎する。
明治2年6月20日(1869年)、版籍奉還により福知山藩知事に任じられ、明治4年7月15日(1871年)の廃藩置県で免官、9月に東京に移った。明治5年5月14日(1872年)、養子の綱鑑に家督を譲り、隠居後は福知山に戻って士族の救済に努めた。
新暦1878年(明治11年)7月27日、綱鑑の隠居により再び家督を継ぐ。アメリカ留学中の綱鑑の結婚を阻止し、実家に戻すための措置であった。その後は富教会を設立して士族の救済を本格的に努めたという。1883年(明治16年)4月26日に死去。享年39。
実子に陸軍少将・貴族院議員を務め、火薬の研究者としても有名な子爵朽木綱貞がいる。