杉井幸一
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来歴
1906年-1932年 音楽キャリア以前
1906年、東京市芝区に杉井組の経営者を務める父と三味線・長唄・地唄に秀でた母の家庭に生まれ[6]、幼少期より音感に優れた[2]。
旧制東京府立第五中学校から旧制静岡高校に進み[3]、その間、カナダ人の先生からピアノと歌を習った[6]。
同高校在学時の1925年5月に、第一回記念祭歌として発表された栗山卓士作歌の『寮歌』を作曲[13]。1927年に卒業した[14]。
東京帝国大学法学部に進学し、音楽部ではピアノを教えた[3]。1930年に法学士として卒業[15]。
同大学を卒業後、大阪商船に入社しブエノスアイレス支店に勤務[3]、同地でバンドネオンに出会い、興味をそそられる[4]。
また、同地ではタンゴの研究も行った[6]。
1932年[16]、逢坂商船社員としてアルゼンチンから帰国した[17]。
その後音楽家として活躍するまで、ラテン音楽、特にアルゼンチンタンゴの研究者として知られた[12]。
1932年-1941年 映画界での活躍
アルゼンチンから帰国後[6]直ちに退社し[5]、1932年にPCL映画に入社[3]。 音楽ミキサーとしての入社だったが[5]、映画音楽の編曲も行った[12]。
杉井はこの間バンドネオンを自ら輸入し、その奏法を研究していた[5]。
1935年-1938年 ダンスホールでの活躍
桜井潔と知り合い、1935年10月[18][注釈 3]サクライ・イ・オルケスタ (桜井潔とその楽団)に当初はアコーディオン奏者・アレンジャーとして参加した[8]。
同楽団による軽音楽大会はジャズとタンゴの両方を演奏し、時にはハワイアンの楽曲も演奏した[8]。
1936年あるいは1937年から杉井は同楽団でバンドネオンを演奏するようになった[8]。
同楽団では編曲者としてクラシックの曲をジャズに編曲した[8]。その編曲の技術は独学であった[4]。
1936年、杉井は新たに桜井と共同でノベルティ・クインテットを組織し、新宿帝都座ホールに出演[19]、放送にも活躍した。
1938年末に桜井が兵役に応召され楽団は解散した[2]。
1937年-1938年 オルガニストとして
1937年[20]、日本橋三越本店二階に鎮座するウーリッツァー製のパイプオルガンのオルガニストも務めた[21]。
また、1938年3月17日の午後八時半にNHK東京放送局でハモンドオルガンを日本のラジオ放送で初めて演奏した[2][10][11]。
1936年-1941年 レコード界への進出
井田一郎はキングレコードの清水龍治に杉井を紹介し[22]、杉井の音楽が世に出るきっかけを作った[22]。
1936年[4]、杉井はポリドール委託製作から独立後間もないキングレコードと専属契約し[23]、キング・サロン・オーケストラのアコーディオン奏者となった[4]。歌手としても活躍した[12]。
杉井はキング・ノベルティ・オーケストラの名義でサロン・ミュージックのシリーズとして民謡をジャズに編曲・録音した[7]。
この一連のレコードは二枚ずつのアルバムによって[12]合計二十数枚発売され[8]、戦前の和製軽音楽のそれとしては記録的な評判をとった[7]。
同シリーズのピアノは、増尾博久[2]、パーカッションは泉君男が担当した[8]。
このシリーズは、杉井の没後宇川隆三や佐野鋤に引き継がれた[12]。
1941年 演劇・単独コンサートと謀略放送での活躍
1941年、杉井は松竹のショー「真夏の夜の夢」の音楽を務めた[8]。
同年、杉井は日本青年館で数回にわたり東西セミクラシック曲のアレンジをメインにしたコンサートを行い、弦と木管を含む20名の規模で演奏した[7]。
今日でいうリハーサル・オーケストラによる演奏会だったという同公演と同様の趣旨のコンサートは、産業組合中央会館講堂でも催され、ドビュッシーやアルベニスなどの外国曲を演奏した[2]。
また、1940年に『杉井幸一作品 日本民謡交響楽』と題する実演も行った[6]。
杉井は戦時の対米謀略放送でも演奏したNHK東京放送局専属のニュー・オーダー・リズム・オーケストラ[注釈 2]にもアレンジャーとして参加した[7]。
1941年末-1942年 晩年
元々体の弱い人でもあった杉井は[8]、時局の重圧と多忙、また編曲の勉強に没頭したことから過労を強いられ、1941年11月8日になって体の具合が悪くなり、医者に絶対安静を言い渡される[2]。
真珠湾攻撃が行われた日である同年12月8日に入院し[5]、病床で「戦争でジャズができなくなって寂しいな」と洩らしていた杉井は、1942年4月5日[注釈 1]に妻に看取られつつ[2]、急性腎臓炎のため36歳で死去した[3]。
杉井は死の直前、六大学の校歌を新しいスウィングのスタイルに編曲した。
これらの楽曲は演奏の機会を与えられず、それらの楽譜は1957年時点で遺族が所有していた[24]。
家族
評価
キングレコードの音楽監督だった篠原正雄は、「杉井君は大変いい才能を持っている」と感心した[22]。
内田晃一著『日本のジャズ史 戦前戦後』掲載の「戦前派ジャズメン人気投票」のランキングには、アレンジャーの五人のうちの一人として杉井の名が挙げられている[4]。
吉田衛は、自らが運営するジャズ喫茶「ちぐさ」で戦時中にジャズがかけられなくなった際に、杉井のレコードをかけて官憲の目をごまかしつつ、ジャズの「渇をいやした」としている[28]。
瀬川昌久は杉井を「私のかねてから最も尊敬するアレンジャー」と評した[7]。
大谷能生は杉井のサロン・ミュージックシリーズを「エキゾなリズムを咀嚼して…スウィングさせることに成功している」と評した[29]。
毛利眞人は、戦時下におけるポピュラー音楽の在り方を模索した一人として、杉井の名を挙げている[9]。
岡田崇は、戦後に生きていたら日本のジャズ史が変わっていた「天才的なアレンジャー」と評し、また杉井の編曲にレイモンド・スコットの影響があることを指摘した[30]。
原田和典は杉井を「夭折の鬼才アレンジャー」と表し、イベントで彼の「木曽節」が流れたことが「嬉しかった」と評している[31]。
逸話
作品
著作
- マックニール 著、杉井幸一訳『モダンギター奏法』 東京音楽書院、1934年
- 『誰にもすぐわかる トンボ・ピアノ・アコーディオン バスの使ひ方』、全日本ハーモニカ・アコーディオン聯盟、1941年
演劇・ショー
- 朝鮮レビュー『半島の旋律』六景(1941年7月、編曲と指揮)
- 東方演劇舞踏隊のショー『真夏の夜の夢』(1941年8月、音楽)
映画
音楽
- 笑ふ地球に朝が来る(1940年、南旺映画)
- 姑娘の凱歌 (1940年、東宝映画東京)
録音
- お猿三吉 坊空戦の巻(1933年、日本漫画フィルム)
- 動絵狐狸の達引(1933年、P.C.L.)
- お猿の三吉 突撃隊の巻(1934年、日本マンガ・フィルム)
- 浪子の一生(1934年、P.C.L.)
- エノケンの魔術師(1934年、P.C.L.)
- 乙女ごころ三人娘(1935年、P.C.L.)
- 女優と詩人(1935年、P.C.L.)
- 妻よ薔薇のやうに(1935年、P.C.L.)
ディスコグラフィー
2026年現在、岡田崇は自身のプロフィール上で杉井のアーカイブ・ワークスを進行中だと表明している[33]。
特に記載のない限り、本項に掲載されたディスコグラフィーは杉井がバンドリーダーとして参加したものである。
シングル
- 歓喜の唄・祈り(歌手としての録音、1937年、コロムビア)
- チンライ節・マロニエの木陰(1937年3月、キングレコード)
- 上海の花売娘・母子船頭唄(1938年8月、キングレコード)
- 広東の花売娘・涙の責任(1940年、キングレコード)
- 愉快なルムバ・夢のタンゴ(1942年1月、キングレコード)
- ポエマ・スペインの姫君(1943年、キングレコード)