杉山三郎 (陸上自衛官)

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杉山 三郎(すぎやま さぶろう、生年月日不詳 - 2006年(平成18年)11月25日[1])は、日本の元陸軍軍人及び陸上自衛官。陸士52期(歩兵)、陸大60期卒。最終階級は少佐陸将

福岡県小倉市出身[2]東京陸軍幼年学校に37期生として入学。同じ班の古賀秀正の妹はのち妻となる。陸軍士官学校予科に進学後、分離独立した予科士官学校に1期生として転入。2期生(=陸士53期)第11中隊第5区隊の指導生徒も務めた。卒業後、大阪の歩兵第8連隊に配属が決まる[2]。幼少期より「またも負けたか8連隊」の俗謡は耳にしていたため憮然としたという。しかし、1939年秋の陸士卒業後に歩兵砲隊、本部、中隊附と将校勤務を通してそれが誤りであったと分かり、のち予科区隊長時代は同期からの「どうだ、8連隊は強かったか」との偏見を込めた問いかけには理路整然と反論している[3]。 中尉昇進後、中隊長として江北作戦第二次長沙作戦に参加。さらに南方に転じ、第二次バターン半島攻略戦やコレヒドール島攻略戦に参加し内地に帰還した[3]

1942年末に予科士官学校区隊長(60期担当)を経て陸軍大学校に入学。卒業後ただちに独立混成第122旅団参謀に発令され、終戦を迎える。

復員後は長崎の川南工業に勤務していたが、教え子の勧めもあり警察予備隊に入る[4]。以降、教育畑を経て第3師団副師団長兼 千僧駐とん地司令、北海道補給処長を歴任し、第6師団長で退職。

2006年(平成18年)11月25日午前9時過ぎ、自宅にて老衰のため死去[1]

年譜

  • 1933年(昭和8年)4月:東京陸軍幼年学校入学(37期、第2訓育班第3学班[5]
  • 1936年(昭和11年)3月:陸軍士官学校予科入学
  • 1937年(昭和12年)9月:陸軍予科士官学校卒業、歩兵第8連隊隊附
  • 1939年(昭和14年)9月:陸軍士官学校卒業、歩兵砲隊、本部、中隊附のち第3中隊長[6]
  • 1942年(昭和16年)末:陸軍予科士官学校附、のち第11中隊第6区隊長(60期担当)
  • 1945年(昭和20年)8月6日:陸大卒業、独立混成第122旅団参謀[7]
  • 陸上自衛隊富士学校
  • 1956年(昭和31年)3月:陸上自衛隊幹部学校教官[8]
  • 1958年(昭和38年)8月:第4管区総監部第4部長[9]
  • 陸上幕僚監部第5部訓練班長
  • 1965年(昭和40年)3月:西部方面総監部第3部長[10]
  • 1967年3月16日:第13師団幕僚長[11]
  • 1968年(昭和43年)7月15日:東北方面総監部幕僚副長[12]
  • 1969年(昭和44年)7月15日:陸上自衛隊幹部学校教育部長[13]
  • 1971年(昭和46年)3月16日:第3師団副師団長兼 千僧駐とん地司令[14]
  • 1972年(昭和47年)7月1日:陸上自衛隊北海道補給処長
  • 1973年(昭和48年)
    • 3月16日:陸将昇任
    • 7月1日:第6師団長
  • 1975年(昭和50年)4月1日:退職

栄典

脚注

参考文献

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