義宗の長子、和田義盛は三浦郡和田郷に拠点を構え、杉本城には義宗の次男、義茂が入城した。
石橋山の戦いで敗れた源頼朝が安房国に逃れた際に三浦義澄や和田義盛はこれに従い、義宗の仇である平家方の長狭常伴との戦いで活躍している。なお、常伴討伐そのものが義宗の仇を討つために義澄・義盛が企てた陰謀の可能性も指摘されている[2]。
三浦党は嫡流となった次男義澄の死後、庶家となっていた和田氏の方が勢力が強くなった。建暦三年(1213年)、和田氏は泉親衡の乱により北条義時との険悪化が進み、和田合戦へと発展した。和田合戦で三浦氏が北条方につき、和田氏は滅ぼされた。