杉江秀 From Wikipedia, the free encyclopedia 生誕 (1881-02-10) 1881年2月10日出身地 日本・石川県金沢市[1]死没 (1943-02-21) 1943年2月21日(62歳没)学歴 東京音楽学校甲種師範科卒業杉江(すぎえ) 秀(ひいづ) 1927年頃撮影基本情報生誕 (1881-02-10) 1881年2月10日出身地 日本・石川県金沢市[1]死没 (1943-02-21) 1943年2月21日(62歳没)学歴 東京音楽学校甲種師範科卒業職業 作曲家、ピアニスト、バリトン歌手、音楽教師[2]テンプレートを表示 杉江 秀(すぎえ ひいづ[2][3]、1881年2月10日[2] - 1943年2月21日)は、20世紀前半に活動した日本の作曲家。名前は「しゅう」と音読みされることが多い。石川県金沢市出身[1]。 1881年(明治14年)、金沢市の名家に生まれる[4]。尋常小学校を卒業後に大阪へ移り、大阪府第一中学校(現在の大阪府立北野高等学校)13期卒業の後[5]、東京音楽学校へ入学し甲種師範科で同じ旧制中学の先輩に当たる多梅稚に師事する。 1904年(明治37年)に東京音楽学校を卒業し[6]、富山県師範学校の教諭となる[6]。1907年(明治40年)に『越中唱歌』を作曲、清明堂から刊行した[7]。1922年(大正11年)に大阪府立市岡高等女学校(現在の大阪府立港高等学校)音楽教諭となり、1928年(昭和3年)に「祝日大祭日唱歌」として作詞・作曲が公募された「明治節」の作曲部門で入選する[2][8]。 1929年(昭和4年)に市岡高等女学校を退職した後は、天王寺高等女学校(現在の四天王寺中学校・高等学校)講師、上宮中学校(現在の上宮高等学校)講師を経て[2]、浪花高等女学校(現在の関西福祉大学金光藤蔭高等学校)教諭となったが、1943年(昭和18年)2月21日に心臓病のため逝去した。享年63[9]。この訃報に前後して大阪音楽文化協会が公募を行っていた国民歌「撃ちてし止まむ」の作曲部門入選の報がもたらされており[9]、これが遺作となっている。 出典 1 2 東京日日通信社(1927), 洋楽の部p143 1 2 3 4 5 音楽年鑑 1941. ↑ 大正~昭和初期にかけて大阪府立市岡高等女学校の音楽教員だった杉江秀という人物の生没年と姓名の読み方を調べており、手がかりとなる資料をご紹介いただきたいです。(国立国会図書館・レファレンス総合データベース) ↑ 現代音楽大観 1927. ↑ 六稜の音楽人たち(大阪府立北野高等学校) 1 2 東京音楽学校一覧 1905, p. 99, 第9部第1章 卒業生氏名. ↑ 谷口 & 森田 2010, p. 107. ↑ 東京朝日新聞, 1928年9月10日付7面「明治節唱歌作曲當選者」。この記事では名前の読みが「しう」とされている。 1 2 朝日新聞(大阪本社版), 1943年2月25日付3面。 参考文献 『東京音楽学校一覧 従明治三十七年 至明治三十八年』東京音楽学校、1905年。NDLJP:813017。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813017/86。 東京日日通信社 編『現代音楽大観』日本名鑑協会、1927年、洋楽の部143頁。NDLJP:1173920。 大日本音楽協会 編「杉江 秀」『音楽年鑑』(昭和16年)共益商社書店、1941年、176頁。NDLJP:1109457。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1109457/120。 谷口昭弘、森田信一「明治期の富山における西洋音楽の受容」『富山大学人間発達科学部紀要』第5巻第10号、2010年、101-111頁、NAID 120002772264。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。表示編集 典拠管理データベース 全般 ISNI VIAF 国立図書館 日本 学術データベース CiNii Books CiNii Research Related Articles