李元暉
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上海の震旦大学を卒業[1]。王揖唐の門弟であり、師に従う形で李元暉も中華民国臨時政府に参与する。1938年(民国27年)9月、王が総長をつとめる振済部、次いで内政部において秘書に任命された[2][3][注 1]。
1940年(民国29年)3月30日、臨時政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流し、華北政務委員会に改組される。王揖唐が国民政府中央(南京)に赴き考試院長に就任すると、李元暉もこれに随従し、考試院参事に任命された[4]。5月には、華北政務委員会(北京)においても内務総署秘書代理を兼務している[5]。6月6日、王揖唐が華北政務委員会委員長等に就任[注 2]して北京へ戻ると、李も7月に考試院参事を辞任して北京へ移った[6]。
北京へ戻った李元暉は、同年8月末に華北政務委員会政務庁秘書代理に派出された[7]。翌1941年(民国30年)1月末には同委員会秘書庁文案処処長に異動し[8]、2月には資歴審査委員会委員を兼ねている[9]。1942年(民国31年)4月、秘書庁庁長・夏粛初が政務庁庁長代理に転じたため、李元暉が後任として秘書庁庁長代理に派出された[10]。同年7月、国民政府中央により秘書庁庁長に正式任命されている[11]。翌1943年(民国22年)2月、王揖唐の華北政務委員会委員長辞職と併せ、李も秘書庁庁長を退任した[12][13][注 3]。
秘書庁庁長退任後における李元暉の動向・行方は不詳である。