呉甌

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出生: 1899年[1][2]
死去: 没年不明(1945年8月時点では存命)
職業: 官僚・文筆家・書家
呉甌
『社会月刊』(1931年)
プロフィール
出生: 1899年[1][2]
死去: 没年不明(1945年8月時点では存命)
出身地: 清の旗 盛京将軍管轄区遼陽県[3][4]
職業: 官僚・文筆家・書家
各種表記
繁体字 吳甌
簡体字 吴瓯
拼音 Wú Ōu
ラテン字 Wu Ou
和名表記: ご おう
発音転記: ウー オウ
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呉 甌(ご おう、1899年 – 没年不詳)は、中華民国の官僚・文筆家・書家。字は伊賢[2][3]。初期は天津市政府などで、後には中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権華北政務委員会で各職を歴任した。夏粛初李元暉らと共に、王揖唐の側近と目される人物である。

天津市政府での活動

北京大学で文学士を取得。1931年民国20年)4月、天津市長張学銘の下で同市政府秘書長兼社会局局長として起用されたが[注 1]、同年10月に早くも辞任している[5]。しかし、半年という短い任期において、呉甌は天津市の各種産業調査報告を編集し、刊行にまでこぎつけた(本記事「著書」天津市社会局発行のものを参照)。これら調査報告は、後年における天津市の民国期都市社会学研究において重要文献となっている。

天津市政府から離れた後、呉甌は軍事委員会北平分会検察処長、北平市政府総務処処長を歴任した[1]

臨時政府での活動

王克敏王揖唐らが中華民国臨時政府を創設すると、呉甌はこれに参与した。1938年(民国27年)6月、行政部副局長に任命され[6]、9月には新設された内政部(総長:王揖唐)の参事に転任した[7]。翌1939年(民国28年)6月10日、呉甌は河南省政府公署民政庁庁長署理に起用され、新任の河南省長代理(兼豫北道尹署理)・陳静斎を補佐した[8]

同年8月9日に陳静斎が省長署理専任になると、同日に呉甌は内政部へ呼び戻され秘書長に抜擢されている[9]。当時の内政部では次長が空席だったため、秘書長が内政部のナンバー2であった[10]1940年(民国29年)2月、高等文官考試試務処処長を兼任している[11]

なお、当時の呉甌は40歳前後の年齢であり、臨時政府の上層部においては抜群の年少である。また、王揖唐の派閥の一員と目されていた[4]

華北政務委員での活動

1940年3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)が成立し、臨時政府が華北政務委員会に改組され、内政部も内務総署に改組された。王揖唐は考試院長として国民政府中央(南京)に移り、華北政務委員会委員長の王克敏が内務総署督弁[注 2]を兼務することになる。5月4日、華北に残留した呉甌は内務総署秘書長代理に横滑りで派出された[12][注 3]。ところが同日、江紹杰が内務総署署長代理として新たに抜擢され[注 4]、呉は江の下位(総署内ナンバー3)に回された[注 5]

6月6日、王克敏が汪兆銘(汪精衛)らとの対立の末に委員長兼内務総署督弁等を辞職し、王揖唐が北京に戻って王克敏の地位を引き継いだ[注 6]。王揖唐は江紹杰を意中の内務総署署長とみなしていなかったため、8月31日に江を辞職させ、華北政務委員会顧問へ左遷した[13]。同日、呉甌は内務総署秘書長代理のまま署長事務も兼務代行し[14]、9月30日、署長代理の専務となった[15]

1943年(民国32年)2月、王揖唐が華北政務委員会委員長などを退任したため、同月11日、呉甌も併せて内務総署署長代理を辞職した(後任は孫潤宇)。しかし翌月の3月3日、早くも呉は華北郵政総局局長代理に派出されている[16]

晩年

日本敗戦後、呉甌は漢奸指名を受けたため、変名を使い逃亡する。その一方で、親交があった中国国民党中央部秘書長・呉鉄城に仲介を依頼した。呉甌の才能を惜しむ呉鉄城が軍事委員会委員長北平行営主任・李宗仁に書簡を送ったところ、李も受け入れて呉甌は赦免された[17]

以後、呉甌の行方は不詳である。

逸話その他

呉甌は文化人としても知られ、親日政権に参加した王潜剛らと同様に文筆家・書家として作品を残している。

著書

脚注

参考文献

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