李光進
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鶏田州刺史の阿跌良臣の子として生まれた。幼くして姉の夫の舎利葛旃を頼り、太原府に居住した。勇猛果敢で、その武芸と兵略は舎利葛旃に次ぐものがあった。粛宗が霊武で閲兵して以来、光進は郭子儀に従って反乱軍を破り、長安・洛陽を奪回するにあたって、戦功を重ねた。乾元元年(758年)、代州刺史に任じられ、范陽郡公に封じられた。宝応元年(762年)、郭子儀が朔方節度使となり、軍をもって大同軍・横野軍・清夷軍と范陽・河北の反乱軍の残党を掃討すると、光進は都知兵馬使として任用された。ほどなく渭北節度使に転じた。永泰元年(765年)、武威郡王に封じられた。大暦4年(769年)、検校戸部尚書となり、知尚書省事をつとめた。ほどなく検校刑部尚書に転じ、太子太保を兼ねた[1][2]。
元和4年(809年)、王承宗が反乱を起こし、范希朝が軍を率いて易定を救援すると、光進は歩軍都虞候となり、木刀溝で戦い、功績を挙げた。元和6年(811年)、銀青光禄大夫・検校工部尚書に任じられ、単于大都護・振武軍節度使をつとめた。誠実で節操があり、勲功顕著であることから、李氏の姓を賜った。元和8年(813年)、霊武節度使に転じた。光進は馬燧に従って臨洺県を救援し、洹水で戦い、河中府を奪回し、いずれも功績を挙げた。元和10年(815年)7月、死去した。享年は57。尚書左僕射の位を追贈された[3][2]。